野田俊作の補正項
             


ヒエロファニー

2001年04月10日(火)


 ゴータマは、エリアーデがヒエロファニー(聖体示現)と呼んだものが来るのを待っていた。結局それは、六年間におよぶ苦行によってもこなかった。そこでゴータマは苦行を捨て、川で沐浴し、村娘がさしだすヨーグルトを飲み、菩提樹の下に座った。このとき、ゴータマは完全に絶望していたと思う。そのまま死のうとしていたのだろう。そうして、すべての渇愛(求め)が消えたとき、それはやってきた。

 仏伝を読むと、このときゴータマが死のうとしていたとは書いていない。絶望したとは書いているけれどね。さらに、仏伝を正確に読むと、沐浴や女性を見ることや食事をすることがヒエロファニーにつながるとは思っていなかったとことがわかる。じゃあ、彼はなぜ沐浴して女性を見て食事をしたのか。それは、すべての意味を失っていたからだ。だから、死のうとしていたのだと私は言う。もっとも、「死のうとする」と言っても、積極的に自殺するわけではなくて、生きるための一切の努力をやめようとしたということだが。

 仏伝には、むしろ、ヒエロファニーがおこってから、そのまま死のうとしたと書いてある。じゃあ、おこる前はどうだったのか。ヒエロファニーがおこってからさえ死ぬのであれば、おこる前は、もっと死ぬ理由があったのではないか。正確に言うと、生きている理由がなかったのではないか。

 生きていることを断念しないと、ヒエロファニーはおこらない。しかし、積極的に自殺しようとするのは、それもまた渇愛(死への渇愛を無有愛という)であるから、ヒエロファニーはおこらない。生をも断念し、死をも断念したところで、それはおこる。

 なぜこんな話を書いているかというと、ある読者から、上座仏教のスマナサーラ長老の瞑想会に出て、「目的を設定しようとしているからダメ」と言われたというメールがあったことにちなんでいる。その人への答ということではないのだけれど、ふだん考えていることを書いた。