野田俊作の補正項
             


フラワー

2004年07月14日(水)


 この間、仲間と婦人科受診の話をしていた。ある友人(女性)が「あれは屈辱的よ」と言ったので、「そういう考え方はいけない。だって、医者は女性に屈辱を与えようとしているわけじゃないでしょ。たしかに砕石位(婦人科の受診体位)や内診は不快だと思うけれど、それはたとえば採血されるのが不快だとかバリウムを飲むのが不快だとかというのと、本質的には同じことです。それを女性が『屈辱的』だと感じてしまうところに、現代の文化の悲劇があるんです」と言った。「『ねえねえ、見て見て、私の性器はかわいいでしょ』と女性が思えるような文化を作らないといけない」とも言った。女性たちは複雑な顔をしていた。

 男性は自分の性器が見えるので、子どものころから慣れ親しんでいるが、女性は見えないので、親しみをもてないようだ。しかしそれだけのことではない、性器を不潔だとか恥ずべきだとか教える「性器蔑視思想」があって、それによって徹底的に洗脳されてしまっているように思う。男性だって洗脳されるのだが、いつも見ているものだから、そのうち、そんなに不潔だとも恥ずかしいとも思わなくなって、劣等感を持たなくなる。しかし、女性は自分の性器を蔑視したまま大人になる。これは援助しないといけないと思う。まあ、私は男性だからやりにくいので、女性のセラピストにお願いする仕事だが。

 女性器の受け入れについて、『フラワー』(宝島社)という本が面白かった。女性のための性教育絵本だけれど、医学的な知識を教えるんじゃなくて、ひたすら「消費者」の側から自分の身体の使い方が書いてあって、いいんじゃないかと思った。「フラワー」というのは、女性の外性器の雅称だ。タントラ仏教では「蓮華」というから、誰でも同じ連想をするんだね。

 女性器の受け入れについては、この本はいい本だと思うが、短所は、結局のところ身体的な性的快感を得ることを目的にしていることだ。性教育の目標は、快感追求ではないと思う。快感は、よい男女関係のよい副作用だと思う。本当の目的は、性に対する抑圧からの解放だろう。和尚(ラジニーシ)が、

 抑圧とは、あなたが生きるつもりのない生を生きることだ。抑圧とは、自分が望んでいないことをすることだ。抑圧とは、自分ではない者になることだ。抑圧とは、自分自身を破壊する方法であり、自殺だ――もちろん非常にゆっくりとした、しかし非常に確実な、ゆっくりとした毒殺だ。表現は生だ。抑圧は自殺だ。(『タントラの変容』市民出版社 pp.357-358)

 と言っているが、フロイト以来、臨床心理学者はずっとそう言い続けてきた。性に対する社会的・心理的な抑圧を取り除くことが、性教育の第一の目標でなければならない。性的抑圧が解除されて、男性と女性とが相互尊敬のうちにいたわりあってつき合うことを学び、その上で、男性は「どうすればこの女性に快感を与えることができるか」という愚かしい考えから自由になり、女性は「こんなことをすると嫌われるのではないか」というばかげた劣等感から解放されて、そうして抑圧のない「自然なセックス」がおこれば、自然に快感が生じてくるのだと思う。

 この間読んだ、ラダ・C・ルーリオ『タントラライフ』(和尚エンタープライズジャパン)に、、

 ミュンヘンの最初の夜に、ゴヴィンダスとわたしは恋人同士になった。その穏やかなゆったりとした経験は、わたしには驚きだった。ゴヴィンダスとのセックスには明らかに普通とは違った、とても興味深い質があった。例えば、彼は普通の男性のように性的なクライマックスへとやみくもに突進しなかった。彼は急いでいなかった。最後の大団円に向かう一歩一歩のステップが、彼にとって歓びに満ちたもの、貴重なものであるかのようだった。(p.42)

 と書いてあって、「それはそうですよ」と思った。和尚の弟子たちは、性的抑圧から抜け出す訓練を徹底的に受けるので、ポルノ男優のセックスとちょうど反対のこと、とても自然にセックスするようになる。著者にとって、和尚の弟子の男性とのはじめての性体験だったので、印象的だったのだろう。こういう訓練を、過激な宗教団体に任せておかないで、医学や心理学が正面から取り上げるべきだと思っている。なかなか難しい社会的事情があるのはわかるんだけれどね。特に、抑圧的な政府と抑圧的なマスコミとね。

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