野田俊作の補正項
             


夕食失敗気味

2010年02月16日(火)


本日の読書
 火曜日は娘と一緒に出勤して、広告を作る。今日も、6月に岡山で行なわれる講座の宣伝文の挿絵を作ったりした。マンガ家志望だった娘のパーソナル・ストレングスを善用しているわけだ。

 夕食は何にしようか娘と相談して、ハンバーグにタマネギソースをかけようということになった。タマネギソースは作ったことがないのでインターネットで調べて作ってみたが、どうももうひとつおいしくない。醤油+酒+味醂+生姜+タマネギというのを、味醂がないので黒砂糖にしたのが間違いかも。次回、もう一度チャレンジして、おいしくできるようになればレシピを掲載する。

 「昭和史ノート」を書いていて、中国はつき合いにくい国だなと、あらためて思っている。地理的につき合わないわけにはいかないが、つき合うと次々とトラブルが起る。昭和前半期に起ったことと、今おこっていることとが、まったく同じパターンをしているので、ぞっとしている。商人たちは儲かるものだから中国と取引をしたがるが、今の政府に商人たちを保護するだけの能力があるのかどうかが心配だ。まだ書いていないが、昭和前半の実績では、対中宥和外交は、かえって事態を悪くしている。むしろ日本の立場を毅然と主張した時期の方がうまくいっているように思う。いわゆる「日中国交回復」後、日本政府はズルズルと中国に譲歩しているが、これはとても悪い徴候だ。政治家はぜひ昭和前半期の歴史を勉強してほしい。

 本物の保守政党ができるのを待ち望んでいるのだが、なかなか難しいようだ。政治はお金がかかるから、そっちの方のメドがつかないと動けないのだろうなと思う。まあ、しばらく民主党にやってもらって、国民がウンザリしてからの方がいいかもしれない。

昭和史ノート(3)

盧溝橋事件

盧溝橋(マルコポーロ橋)
 満洲に傀儡政権を置いた後も、日本の大陸進出の野望は収まる気配はなかった。1937(昭和12)年、北京西南の盧溝橋で起きた発砲事件をきっかけに、日本軍は中国国民党政府と戦争状態に突入した。事件後すぐに停戦協定が成立したものの、近衛文麿内閣は中国側が計画的に起こした事件として華北派兵を声明する。総攻撃をかけ、北京・天津一帯を占領した。戦線は華北から中国中央部に波及し、日本軍は上海占領後、南京も制圧。南京における日本軍の行為は世界中に報じられ、国際的な非難を浴びることになった。(『ビジュアル図説日本史』日本文芸社,p.148)

 1937年(昭和12年)7月7日夜半に、北京市の西のはずれにある盧溝橋近辺で演習中の日本軍と、同地付近に駐屯していた中国軍の間に銃撃戦がおこりました。「なぜ日本軍がそんなところにいたんだ?」と思われる人もいるかもしれません。話は1900(明治33)年までさかのぼります。義和団(拳匪)という狂信的な武装集団が、清朝政府の暗黙の了解のもとに、北京の外国人居住区を包囲して、居留民を抹殺しようとしたことがありました。9週間にわたる攻防の末に、多国籍軍が北京に入り、ようやく義和団を退けました。これを義和団の乱、あるいは義和団事件といいます。それ以来、在留外国人の保護のため各国軍が北京に駐留することが、中国政府との条約によって認められたのです。駐留していたのは日本軍だけではなくて、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの軍隊がいました。彼らは定期的に演習をおこないましたが、盧溝橋の近くの平原が日本軍の演習場に割り当てられていました。ですから、その日も、日本軍の側は通常の演習をしていたわけです。

宋哲元司令官
 テキストは、北京西南の盧溝橋で起きた発砲事件と書いているだけで、どちらが先に発砲したかについては書いていません。当時、北京と天津に駐屯していた日本軍は、すべて合わせて約5千、一方、北京近辺にいた宋哲元将軍麾下の中国軍は合わせて約10万でした。当日現場にいた数は、日本側は150人程度、中国側は1千人以上であろうといわれています。この数字を見ただけでも、日本軍の方から先に発砲するとは思えませんが、真相は今日まで謎のままです。中国の学者はもちろん日本軍が先に撃ったと言っていますが、日本の学者は、中国軍、それも紛れ込んでいた共産主義者が撃ったという人が多いようです。しかし、状況証拠や伝聞証拠以上の確実な証拠はなにもありません。東京裁判でも、どちらが先に発砲したかについては不問に付されました。ということは、中国側かなと思うのですが、これも状況証拠でしかありません。

 事件の翌日の7月8日に、参謀本部は現地軍にむかって、「事件ノ拡大ヲ防止スル為ニ進ンデ兵力ヲ行使スルコトヲ避クベシ」という電報を打ちました。つまり、不拡大方針を打ち出しました。ところが、翌9日の臨時閣議で、杉山元陸軍大臣は内地の3個師団を派兵するように主張しました。これには広田弘毅外務大臣はじめ全閣僚が反対したので、派兵は見送られました。シビリアン・コントロールが機能していたわけですね。翌10日に、現地から、中国軍が撤退せず、しかも増援部隊が来るようだという報告が入ったので、政府は関東軍2個旅団、朝鮮駐屯軍1個師団、内地軍3個師団の派兵を内定し、翌11日、「さしあたり内地軍3個師団を派兵する」と発表しました。つまり、拡大方針に変わったわけです。ところが、11日の午後8時になって、停戦協定が成立したという報告が現地から入りましたので、政府は内地軍の派兵を中止しました。テキストが事件後すぐに停戦協定が成立したと書いているのはこのことです。政府はまたもや不拡大方針に変わったわけです。

 11日の停戦協定の内容は、1)中国側が日本側に謝罪し、直接責任者を処罰する、2)中国軍は盧溝橋付近から撤退する、3)中国軍は共産党や藍衣社(国民党の秘密組織)の影響を排除する、という3項目からできていました。これを見ても、やはり中国側が先に発砲したと見るべきだと思いますね。しかし、協定がなったとはいえ、盧溝橋付近では両軍の間に一触即発の緊張が続いていましたし、いくつかの小事件もありました。たとえば、13日には天津から盧溝橋に向かおうとする日本軍砲兵隊が襲撃され、兵4名が戦死しましたし、14日にはやはり天津から盧溝橋に向かう騎兵隊が襲撃され、兵1名が戦死しました。

香月清司司令官
 現地軍司令官の香月清司中将はもともと拡大論者でしたので、報復攻撃を考えていました。そこに、宇佐見侍従武官から、天皇のお気持ちを伝える手紙が届きました。そこには、「お上のお思召しも事変の拡大と云ふことを非常に御軫念(しんねん)遊ばされて居られますから此の辺のことは十分心得て居ると思ひますがお思召しの点をお伝へします」(桶谷秀昭『昭和精神史』文春文庫,p.336)と書かれてありました。この手紙を読んで香月は気持ちを動かされ、不拡大方針を徹底しようと決心しました。

 ちなみに、天皇は、熱河作戦の時にも「長城を越えて中国領内に入らないように」と考えておられ、それを承けて武藤信義関東軍司令官は、「熱河省は満洲国領域にして軍の自由に行動し得べき境域なるも、長城を隔つる河北省は中華民国の領域にして、大命あるにあらざれば、軍として作戦行動を許されざるの地域たるをわきまへ…」(中村粲『大東亜戦争への道』展転社,p.344)と全軍に訓示しています。しかし、実際には戦術上やむをえず、日本軍は長城を越えました。そのとき天皇は本庄茂侍従武官長に「関東軍の前進中止を命令したらどうか」とおっしゃったので、武官長はこの旨を真崎甚三郎参謀次長に伝え、真崎は関東軍司令官と関東軍参謀長に宛てて電報を打ち、軍は一時長城まで撤退しました。その後、中国軍の攻撃がやまないので、結局は北京の近くまで侵攻することになりますが、それについてはすでに「満洲事変の停戦処理」の項に書きました。いずれにせよ、天皇は中国との戦争を望んでおられなかったわけです。

 さて、現地に話を戻すと、7月18日に中国軍の司令官の宋哲元がみずから謝罪に来ました。

 「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度のことについては軍司令官(香月中将)の指導を仰ぐことにしたいと思ひますから何事によらず指示に与りたい」といふ丁寧な挨拶で、“謝罪する”とはいつてゐないが、香月は「遺憾に思ふ」の含意に謝罪がこめられてゐると解釈した。面子を重んじる中国人がみづから出向いてきたこと自体からもさう感じたであらう。(桶谷秀昭『昭和精神史』文春文庫,p.327)

 こうして、盧溝橋事件は、現地司令官の間では完全に解決しました。だから、盧溝橋で起きた発砲事件をきっかけに、日本軍は中国国民党政府と戦争状態に突入したとテキストが書くのは、すこし大ざっぱすぎると思います。日本側に関しては、天皇も政府も軍も、中国と戦争をする気は、すくなくともこの時点では、ありませんでした。