人の嫌がることはしない?
2012年01月11日(水)
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| 本日の読書 |
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お医者さんの初日で、けっこう忙しかったが、いつも書記をしてくていれる秘書は、お正月に帰省した孫のお守の過労のためか、今日はお休み。忙しいときは話し相手がいなくてもいいから、まあそれほど不便ではないんだけどね。
一昨日に、スピリチュアリティのワークショップの夢を見た話をした。昨年末の合宿ワークショップは仏教の経典を使ってヴィパシャナをしたが、今年の5月に予定している合宿ワークショップは、神社を借りてすることもあるし、神道の聖典を使ってヴィパシャナをしようと思っている。それはいいんだけど、神道の文献って、いったいなんだろう? 『古事記』とか『日本書紀』だろうか、『延喜式祝詞』だろうか、『神皇正統記』だろうか、本居宣長や平田篤胤だろうか、山崎闇斎や遊佐木斎だろうか、『國軆の本義』だろうか、柳田國男や折口信夫だろうか、あるいはいっそ『金光大神覚』や『霊界物語』だろうか。どうもそのあたりの見当がつかない。まあ、これからぼちぼちあたっていく。それに関連して、2月と3月に実験セッションを計画していて、2月は昨年末と同じ仏教版、3月は5月に向けて神道版にしようと思っている。瞑想法は同じチベット瞑想だが、メンタル・トレーニングのためのテキストが違っている。ちなみに、先日の夢は神道版で、「ことよさし」と関係のある儀式だった。実際にするのは5月になると思う。
話は変わるが、この間、育児プログラムの実験セッションをやりながら気がついたのだが、このごろの若いお母さんやお父さんは、子どもに家事の分担などを提案しても、子どもがいやがるとすぐにひっこめてしまうみたいだ。子どもが「ええっ」と言ったりすると、それだけで親はさっさと撤退する。「人の嫌がることはしない」という教育が徹底しているのかな。家事を分担するというのは、家族の義務だ。義務は、好きとか嫌いとか言うべき対象ではなく、引き受けるしかないものだ。むかしは鉄拳制裁をしてでも引き受けさせたのだが、それは野蛮なので、楽しく引き受けてもらう工夫をするのが、アドラー心理学の育児だ。どうもそのあたりが伝わっていない。
学会の役員になり手がないというのも、こういう背景があるんだろうね。面倒なことは引き受けたくないんだ。しかし、そんなことをしていたら、人を不幸にするし、それがはねかえって、結局は自分自身が不幸になるだけだ。進歩的(?)な先生方が、学校教育から、いわゆる「強制」を徹底的に排除したので、ものすごいエゴイストが育ってしまっている。組織のために義務を果たすのは、組織成員の誇りなんだがなあ。学校教師自身にそういう体験がないのかもしれない。まあ、文句を言っていても仕方がないので、機会があるたびに、義務を果たすことの喜びについて話をしていこう。これは、仏教的なアイデアではなくて、神道的なアイデアじゃないかな。