野田俊作の補正項
             


道徳教育としてのアドラー心理学の位置

2013年07月06日(土)


本日の読書
 高松に来ている。今日は講演会だが、会場は、高松駅と坂出駅の真ん中あたりにある「国府」という駅の近くだ。以前にも書いたことがあるが、奈良時代に国府のあった場所で、いかにもそれらしい地形をしている。学校の先生を主な対象にした会だが、質問の中に、「話の内容は、学校でしている人権教育の考え方や進めていることそのものだと共感した」というのがあって、激しく傷ついてしまった。それで、「ケーキのデコレーションのクリームは似ているかもしれないけれど、中のスポンジの部分はまったく違っています」と答えた。

 人権思想は、ロックやルソーに起源を持っている。つまり、社会契約説にもとづいている。社会契約説というのは、血縁社会(ゲマインシャフト)を否定して、契約社会(ゲゼルシャフト)を作ろうという考え方だ。そこでは、まず最初に「個人」というものが想定される。最近は「市民」と呼ばれることが多いが、いずれにせよそれは、物理学における原子のように無個性なものだ。ここで「無個性な」というのは、生まれながらに「誰それの息子」だとか「何民族の一員」だとかいうような個性を持っていない、という意味だ。そういう無個性な個人が「自由意思」なるもので契約を交わして、「社会」を作り上げる。これが人権思想のいちばん根本にあるアイデアだ。

 これに対して、アドラーは共同体(ゲマインシャフト)から出発する。個人よりも先に共同体があって、個人は共同体の中に生まれる。個人はある共同体に「組み込まれて」この世に生まれるし、一生の間、なんらかの共同体に組み込まれて生きるし、そうしてはじめて意味のある人生を送れる。つまり、「誰それの息子」であるとか「何民族の一員」だとかいうことを抜き去って、抽象的な個人というものは存在できない。その個人が権利を持つとしたら、その権利は、共同体の伝統と法とによって保証されたものであって、そういうことと無関係な「天与の人権」というようなものは認められない。個人は、空間的にも共同体の一員だが、時間的にも歴史の一員なのだ。そうして空間的・時間的な共同体に対して個人が責任をはたして暮らすとき、はじめて共同体に対して権利を主張することができる。

 こういう根本部分を見逃して、表面に出ている「学力保障」だの「教育権を守る」だの「体験から学ぶ」だのといったデコレーションばかり見てはいけない。部品は似ていても、組み立て方の根本原理が違うので、行き先がまったく違うのだ。ごくわかりやすく言えば、人権思想は国家解体に向かうし、共同体思想は國軆護持に向かう。國軆護持というのは、日本国は日本国のあり方で暮らし、アメリカ国はアメリカ国のあり方で暮らし、中国は中国のあり方で暮らし、お互いに尊重しあい犯しあわない、という意味だ。グローバリゼーションもインターナショナリゼーションも多文化共生も、アドラー心理学は賛成ではない。ハラ・バックが「クロス・カルチャラル」という言い方で言っているが、各国・各民族・各文化が、おのおののあり方を大切に維持し、その上でお互いの間に橋を架ける。人権とか個人とかいうような、世界中どこででも通じる無個性な考え方を厳しく拒否する。

 アドラー心理学と人権思想とは、「あれかこれか」の二者択一であって、けっして両立できない。不倶戴天の敵なのだ。日本の学校から人権教育を追放し、代わりに日本民族としての道徳教育を復活することが、さしあたって日本のアドラー心理学の目標だと、私は考えている。それは、アメリカの道徳観念や中国の道徳観念と違っていていいので、日本の伝統と文化に根ざした道徳観念でなければならない。学校で教える人権思想のような、無国籍なものではないのだ。