野田俊作の補正項
             


宗教的道徳と宗教的寛容について(3)

2014年05月13日(火)


本日の読書
 日本アドラー心理学会へテキストの印刷に行ってきた。面倒と言えば面倒だけれど、ときどき事務局の人と直接に会って話をするのもいいことだ。

 一昨日、人権論者の悪口を書いたけれど、それはどうしてかというと、彼らは「天与人権」すなわち神から与えられた人権を主張するので、理性的な道徳ではなくて超越的な道徳なのだが、しかも不寛容であることが問題なのだ。超越的な道徳が不寛容であると、宗教戦争が起こる。人権思想はみずからのことを「人類普遍の道徳」だと主張して、それ以外の考え方に対してきわめて不寛容だ。とんでもない狂信だと思う。

 人権思想以外の考え方の例としてイスラム法をあげた。イスラム法もまた超越的な道徳なのだが、イスラム法は非イスラム教徒に対して適用されないので、寛容だ。もちろん、これには両面あって、イスラム法による刑罰を受けない代わりに、イスラム法による権利の保護もない。

 イスラム法であれなんであれ、道徳基準は、「すべきこと」と「してはいけないこと」と、その真ん中にある「していいこと」とを決めている。「していいこと」というのは、個人の権利のことだ。人権思想を認めないなら、個人の権利は、宗教や法や慣習によって保護されることになる。だから、イスラム法は、イスラム教徒の権利は保護するが、非イスラム教徒の権利を保護する気はない。そうなると、イスラム教圏に住む非イスラム教徒は、自分たちで自分たちの権利を保護しなければならない。たとえばキリスト教徒やヒンズー教徒は、自分たちの権利を守るためには、「これはわれわれの宗教が認めている権利だから、イスラム教徒は侵害しないでほしい」と言わなければならない。イスラム教は寛容な宗教なので、別の宗教がある権利を主張するなら、それはそれで尊重する。まあ、そうは言っても、時には衝突になることもあるようだが。

 イスラム法は話が遠いので、別の事例をとりあげる。『産経新聞』インターネット版5月11日付の記事から。

 スウェーデンの人気グループ「アバ」などを輩出した欧州のポップ音楽コンテスト「ユーロビジョン」の決勝が10日、デンマークの首都コペンハーゲンで行われ、ひげ面の女装が特徴的なオーストリア代表、コンチータ・ウルストさん(25)が優勝した。ウルストさんに対してはこれまで、母国オーストリアの極右、自由党党首が「非常識だ」と批判。同性愛宣伝禁止法が昨年成立したロシアなどからも非難する声があったが、舞台で熱唱する姿に聴衆からは大きな拍手が送られた。

 彼(彼女?)の写真を見ていただくとわかるが、女装した上に、わざわざ墨で髭を描いている。なにか主張があるんでしょうね。オーストリアの大統領は、

 コンチータ・ヴルストさんがユーロヴィジョン歌唱コンテストで優勝されたことを祝福します。これは単にオーストリアの勝利であるだけでなく、ヨーロッパにおける多様性と寛容の勝利でもあります。
 Ich gratuliere Conchita Wurst zu ihrem Sieg beim Eurovision Song Contest! Das ist nicht nur ein Sieg für Österreich, sondern vor allem für Vielfalt & Toleranz in Europa.

と挨拶している。多くの人権主義者は、男性の女装ないし同性愛に対して寛容であるべきだと主張しているので、この挨拶には喜ぶだろう。

 では、これはどうか。ちょっと古い話だが、昨年の今ごろ、韓国で売春婦の「売春させろ」デモがあった。売春防止法が成立して、表だって売春できなくなったことへの抗議だ。売春婦には「売春する権利」があるという主張だ。ということは、売春婦を買う方にも「売春婦を買う権利」があるわけだ。人権主義者は、概して売春には反対だと思う。一方で同性愛に賛成して、一方で売春に反対して、しかも両方とも「天与人権」から論証するというのは、自己矛盾しているように、私には思える。私は人権主義者ではないので、売春を認めるか認めないかは、法の問題であって、ある国の法は認めるし、ある国の法は認めないということでいいと思っている。まあ、認めても認めなくても存在はするので、私個人の意見としては、日本も売春防止法は廃止して、保健所などできちんと売春婦の健康管理をした方がいいと思っている。ともあれ、売春は人権問題ではないのだ。

 言葉を整理しておこう。《人権》 human right と《市民権》 civil right とを区別する。市民権というのは、宗教や慣習や法律によって権利が定まるという考え方だ。だから、これは人類共通ではない。これに対して人権思想は、個別の宗教や国家や民族や文化を越えて、全人類に普遍的な権利を主張する。その最大の問題点は、個別の宗教や国家や民族や文化に対して不寛容になることだ。

 たとえばチベット問題を例に考えてみたい。中国共産党によるチベット人迫害を、私は人権侵害だとは考えていない。そうではなくて、チベット人の市民権の侵害だ。チベット語を話すとか、チベット仏教を信じるとか、遊牧をして暮らすとか、そういうことはすべてチベット人の固有の市民権であって、他民族はそれに対して寛容でなければならない。ところが、中国共産党はきわめて不寛容に、みずからの暮らし方を押しつけようとする。中国共産党は人権主義者ではないが、「普遍的価値」を信じているという点では、人権主義者と同じ穴のムジナだ。人権主義も共産主義も、普遍的価値を信仰し、自分と違う価値観にたいしてきわめて不寛容だ。共産主義に対抗するのに人権思想を持ちだしたのでは、それこそ宗教戦争と同じ構造になる。そうではなくて、エスニック・グループの価値観や市民権に対して寛容であることを学ぶべきだ。漢人が漢人の暮らし方をすることに、私は何の異存もないが、漢人の暮らし方をチベット人にであれ日本人にであれ押しつけるのは、きわめて困ったことだと思う。しかも、きわめて暴力的なやり方で押しつけるので、迷惑この上ない。