野田俊作の補正項
             


瞑想について(4)

2016年06月02日(木)


 浜松で『パセージ・プラス』の第1章をした。参加者13人の大きなグループだ。『パセージ』の復習をしっかりしたので、エピソード分析は3ケースだけだった。今回は、1)不適切な行動をする子どもの適切な側面を考え、2)その子に学んでほしいことを考え、3)『パセージ』のどの部分を使ってそれを学んでもらうかを少なくとも2つ考える、という方法を使った。1つの目標に向かって2つ以上のルートを考えておくと、1つがうまくいかなくても、ただちに別のものを使える。『パセージ・プラス』の後は、帰宅しないでその足で東京へ来た。今日から幕張で日本精神神経学会が開催されているのだが、明日の朝から参加する。

 瞑想の話を続けるが、昨日、『ヘーヴァジュラ・タントラ』の瞑想は、1)脈管やチャクラの中でエネルギー(ルン)を動かす瞑想法と、2)性瑜伽と、3)饗宴儀式とからできている、と書いた。いま関心があるのは3の饗宴儀式の部分だ。タントラ自体にも注釈書にも、複雑な儀式をしながら食事をし、呪文を唱えつつある種の飲料を飲み、そうして気分を高揚させて、歌を唄い、踊りを踊るように書かれている。これはかなり楽しそうだと思うのだ。

 食物については、文献には「人肉」などと書いてあるが、実際にはまともな食べ物であったことは昨日書いた。ただし肉食ではあって、現代のチベット仏教でこれに近い儀式をするときには、たとえばハムなどを使う。「ある種の飲料」はサンスクリットでは「ラサーヤナ」と呼ばれるのだが、成分は「精液」だの「経血」だのと書いてある。これも「人肉」と同じで、不浄なものの象徴であるようで、実際にはヨーグルトや蜂蜜を使うような記載が、古代の注釈書の中にある。現代のチベット仏教では赤葡萄酒が使われることが多い。つまり、カトリック教会でパンをキリストの肉、葡萄酒をキリストの血だと思って食べるようなものだ。性瑜伽はともかくとして、食事に関しては、そうびっくりするようなものを食べていたわけではない。

 歌と踊りについては、かなりうるさい規定が書いてあって、どんちゃん騒ぎをするわけではなくて、きわめて儀式的なものであったようだ。現代のチベット仏教でもある程度は歌や踊りを使うが、旋法やリズムを見ていると、まったくインドのものではないので、本来のものは失われたようだ。アティーシャの伝記を読んでいると、彼は毎晩、饗宴で唄われる歌を唄っていたのだが、それは弟子が取り入れたくない部分だったので、「聞かなかったことにした」と書かれている。旅先にいるので、資料を直接引用できなくて申し訳ないが、チベット王が性瑜伽などを嫌って、その部分は取り入れないように、アティーシャの弟子たちに命じていたらしい。そういうわけで、歌も踊りも、インドのオリジナルのものはチベットに伝わっていない。当時は楽譜もなかったし、ビデオカメラもなかったしね。

 存在しなくなったインド密教の儀式を復活することを望んでいるのではなくて、儀式張った饗宴の治療効果に関心を持っている。それは個人をもいやすだろうけれど、共同体をもいやすだろう。西洋では、プロテスタント教会が成立して、キリスト教から儀式を追放して、そうして近代という名前の地獄ができあがった。この地獄から抜け出す方法のひとつとして、饗宴儀式はいい方法だろうと思っている。日本の祭も、いまではかなりわけがわからなくなっているが、かつては式次第がうるさく決められた饗宴儀式であり、それを通じてゲマインシャフトの結束が確認されていた。左翼たちが、たとえば学校の卒業式で国旗と国歌を使うことをいやがるのは、いいところを突いているわけだ。そこで、保守派としては、饗宴儀式の研究に精を出すことになる。