2007年1月アーカイブ

よいものがたり

| コメント(2)

― この夫が妻と死に別れてうつ状態になっているとき、妻との暮らしを語ってもらって、その中でメバルの煮つけの夕食が語られ、ひょっとするとその話が契機となって、夫はうつ状態を脱却することだってあるかもしれないと思うからだ。それが治癒への契機となるかどうかは、そのエピソードが過去と現在とに一貫して存在する《所属》へのマッピングになっているかどうかにかかっていると思う。 ― (1月30日の補正項より)

うーん、ややこしいおっしゃりようを今すこし私のレベルにひきつけて考えると、
《所属》へのマッピングとは、
要するに、それがよい物語である、ということでしょうか。
「よい」というのはつまり、
その人がこれから生きていくのに「つかえる」物語...。

悪い物語(たとえば、死んだ妻とした大げんかの思い出だとか、口の悪い女だったなあというような思い出だとか)
をいくら語ってもらっても、きっと治癒には向かいませんよね。

清岡卓行の場合は、詩人の全精力でもって
亡き妻とのよい物語を大連という土地に集約させて語りなおし、
自らの力で魂の再生を起こすことができたのだと思うのですが

まあ、あせって考えても仕方がないのですが、
具体的にどうやったら、そういう、よいものがたりを
語っていただけるようになるのかな。。。

以前よりは「物語」について、なんとなく見えてきましたが、
それが実際にクライエントさんのお話をうかがう中で、どうむすびつくのか
まだ??の状態です。

生きつづけるために

| コメント(0)

― 大連の風景は現在の信念を覆すための根拠として回想されているのだと思いますが、いかが?―

なるほど。

この小説を書く前の年、作者は妻を失い、死を願います。

大連は、彼にとって
その思い出なしに今を生きることのできない原風景、
ただひとつ彼を癒してくれる土地、
それを思うことによって生きる力が少し湧いてくるようなもの、
つまり勇気づけてくれるもの。
何か決定的なものだと思われます。

死にむかおうとする自らの信念をくつがえすことが作者の目的?
生きるために。
生きつづけるために
大連を語ることが必要だったということでしょうか。

小説の構造も、そう考えてみれば入れ子式というか、
やはり死にとらわれていた若い日の作者が、終戦間際に東京から大連に帰郷したときのエピソードが
40歳すぎた作者によって詳しく語られています。

生きていくことに疲れたとき、作者の心を支えるのは、いつも大連でした。
22歳のときも、
妻に先立たれた今も、
みずみずしいアカシヤの花に象徴される大連が
彼を救いました。

大連というものを中心にすえて、
さまざまな角度から、いろんな時期のいろんなエピソードを、
いろんな表現で
微に入り細に入り、執拗に
(ユングの連想系?)
作者は語ります。
そうか、これが『語りなおし』をする、ということなのでしょうかね?

正気を保つため
生きるために、
ユートピアとしての大連の思い出を
語りなおすことが必要だったのかもしれません。

だから大連は作者にとって神話mythosになるのですね。

カウンセリングに来るクライエントさんは、この作者ほどでないにしても
なんらかの形で困難をおぼえておられますね。
その方にとっての大連をみつけていただくこと...
それがミトスを語るということ...?

― いい芝居やいい小説は、本来いるべき時間と空間からはみ出てしまった(=疎外された)主人公が、本来いるべき場所に還っていく(=所属をとりもどす)プロセスを描いているように思う。 ― (1月29日の補正項より)

つまり心理療法家のお仕事は、
たぶんその方がもっとも生き生きとできるところに還っていただくために
つかえる物語は何かということを、
見つけることなんだ。
かな?

主観と客観

| コメント(1)

『アカシヤの大連』は清岡卓行の小説第2作目であり、第62回芥川賞を取った作品です。
驚いたことに、作者は46歳にして1作目の『朝の悲しみ』を、
47歳にして2作目の『アカシヤの大連』を著しました。
もともとは詩人であり、「小説を書きたいという気持ちはまったくありません」だったそうです。

小説を書くようになったいきさつを、彼は「制作のモチーフ」という文の中で次のように説明しています。

― それを運命と呼んでいいかどうか、『朝の悲しみ』でモデルとされている家庭の不幸が、私を否応なく小説に向かわせました。私は不幸に耐えなければならず、悲しみの詩を、それへの批評によって、内部と外部の交錯する現実のなかにきびしく客観化せずにはいられなくなったのです。
 私はこのとき、モデルとなる人物ならびに生活のなまなましい具体性を細部にいたるまで緻密に組み立てるためには、小説の散文を選ぶよりほかに道はないと思いました。―

客観化...
なまなましい具体性...

この小説を読んでいると、作者の大連への郷愁がせつないほど伝わってきます。
大連の街の通りに植わっているアカシヤの木々、
5月にその花房がはなつ甘いにおい。
南山麓の、赤いレンガ塀と白い窓枠の屋敷街。
目をあらいたくなるほどの濃い青い空、
ひんやりと澄んで乾燥した大気。
街の中心の広場をぐるりと取り囲む、由緒ある建造物の大きさや造りまでもが
まるで、作者といっしょに作者の目で見たことがあったかのように、
私の体験の一部となります。

そんなふうに、行ったことのない街のありさまをありありと知ることができるのは、
作者の執拗な(といっていいほどの)客観的描写のおかげです。

先日、NHKで中国紀行的な番組をやっていたので
現実の、現代の大連の風景ををちらりと見ることができたのですが、
空気の質感まで、ほんとうに、私が本を読んで感じたものと同じでした!
いくら芥川賞受賞作といえども、小説にここまでのことができるのかと、舌を巻いてしまいます。

そしてさらに巧みなことは、たぶんその客観描写が、
おそらくすべて、作者の主観につながっていることではないかと思います。

詩人の描く主観的言語の美しいこと。
『アカシヤの大連』の冒頭の文です。
― かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ。―

かつての植民地にしか作者のふるさとはありません。
大連はまぎれもなく作者の〈風土のふるさと〉なのに
彼の〈言語のふるさと〉は日本語です。
もう二度と帰れないかもしれない土地へのなつかしさ、
幼少年期をおくり、亡き妻と出会って結婚した土地への思いを
作者はくりかえしくりかえし語ります。

また、たとえば『大連の海辺で』は、次のような一文で始まっています。
― 泣きたいほど青い空を、久しぶりに私は見た。―
すでに作者の郷愁にどっぷり浸かってしまっている私は
この冒頭の一文だけで、くらくらときてしまいます。

クライエントの私的物語を詩的言語で語っていただくことがmythosだとしたら、
そこには客観的描写も主観的描写も含まれるでしょう。
私たちがその方のお話をお聴きするときに大切なことは、
その方の主観に沿って客観的事実をお聴きすることであって
それは、その方の関心に関心をもつ、ということにつながるのかなと
なんだか当たり前かもしれないことに思いあたりました。

アカシヤの大連

| コメント(2)

カウンセリング・セミナーで、
クライエントさんに語っていただく
その語りが「伝説」となるように聴いていく
という課題をいただきました。

どうすれば「伝説」「物語」「詩的言語」を語っていただけるのか
1時間以上かけて四苦八苦しましたが、到達しませんでした。
長時間お付き合いくださったみなさま、
中断せずに最後まで続けさせてくださった先生、ありがとうございました。

「伝説」(mythos)というものを、
私はまだわかっていません。

どのように聴いていけばクライエントさんに語っていただけるのか。
大きなJ先生のおすすめは、「よい小説を読みなさい」でした。

おすすめのタダ本が、午後になってもAGに残っていたので
いただいて帰ってきました。
清岡卓行の『アカシヤの大連』です。

仰天しました。
ひとことひとこと、一文一文が、あまりにも凝縮されていて
美しく緊張していて
空気の質感まで感じられるのです。

私はもうすっかり、大連という町にあこがれてしまっています。

この本を読む主眼は、
「どのように語ればmythosになるか」を分析することだったのですが
しばらくは、この小説世界におぼれていたいと思っています。
読み終わってしばらくして酔いが醒めたら、
マインドをつかって、あらためて、考えたことを書くつもりです。

東京アドラーフェライン

| コメント(0)

先週末に東京に行ってきました。
参加したい自助グループがあったからです。

少し早いめに行って代表者さんたちのお話をうかがって
3時間の濃い~い会に出て
おまけに新年会にも参加させていただいて、
おなかいっぱい胸もいっぱいの、充実した半日でした。

阪神間以外の自助グループに、ほんのいくつかですが参加させていただいたことがあります。
そのたびに感じるのは、
いかにしてアドラー心理学の灯をたやさず
正しいアドラー心理学を学びつづけていくか
という熱い切迫した思いです。

たとえば東京の魔女さまはこうおっしゃいます。
「いつも気にかけているのは、どうやったら会に来てもらえるか、
どうやったら通信に投稿してもらえるか、なの」

「通信って、どういう意味をもつの?」と尋ねると、明確に答えてくださいました。

「通信は、会わない時間をつなぐもの」

会と会の間の、仲間に会わないで暮らす時間と、
会の中で体験した感動の時間とをつなぐもの。
なまの言葉、なまの文章は、読む人を、きっとそのときの一体感にひきもどすでしょう。
あるいは、会わない時間におこるたくさんのエピソードを分け合うこともできるでしょう。
また、関東にあるいくつかのグループどうしの空間を、つなぐものにもなるでしょう。

彼女のこのことばを聞いたとき、
東京に来てよかったと思いました。

巨視的に見る

| コメント(6)

『阿弥陀堂だより』への野田先生のコメントを読んで、
映画をひとつの《変奏曲》と捉える、あるいは
筋ではなく構成に注目する、などというのは、
つまり、全体を巨視的に見ておられるということなのだなと思いました。

それに対して私のものの見方は、
登場人物のひとつひとつの動きや
シーンごとの美しさに注目していて
全体の中でその動きやシーンが何を意味しているかをあまり考えていないので、
微視的といえると思います。

からだの動きというのは
おろそかにできないと思うのですが、

あまり細かいところにこだわっていると、
全体を大づかみにすることができなくなります。
エルメスのバッグや食器にばかり注目していても、あまり意味がないですね。
それらのブランドを、監督がどういう意図で使っているのかを考えることの方に
きっと意味があるのでしょう。

実は同じことをカウンセリングのお勉強の中でも指摘していただいたことがあって、
カウンセラー側のひとつひとつの動きや
クライエントさんのひとことひとことに捕らわれすぎてしまうと、
かえって全体が見えなくなる、と言われます。

英語に bird's-eye view (鳥瞰図)という言葉があって
鳥が上空から見下ろしたような風景画や地図のことをいいます。
それに対して、地面の上を這うようなものの見方は、insect's-eye view (虫瞰図)でしょうか。

きょう、AGのカウンセリング・セミナーで
またグループセラピーの実習に出させていただいたのですが、
まあ細かく反省すべき点は多々あるのですが
根本的には同じところでつまずいているような気がします。

全体を大きく見渡して
ここぞというところをぐっと掴む。
そのセンスを養わないといかんなあ~。

めざせ・鳥の視点です。

阿弥陀堂だより

| コメント(2)

予告どおり『阿弥陀堂だより』見ました。

以前に気がつかなくて今回気がついたこと。

監督は、主人公夫婦の歩くすがたを、くりかえしくりかえし撮っています。
それはそれは美しい長野の風景と自然の中で。
まえは、その美しさがただ印象に残っていたのですが...

はじめの方の場面、川沿いを歩く樋口可南子が、とても不自然に見えました。
まるで大きすぎる靴を履いているみたいにぎくしゃくして、
白いスニーカーを投げ出すようにして歩いています。
やがて(役の上で)彼女はパニックの発作を起こし始めました。

冒頭の、山道を「阿弥陀堂」へ向かう場面でも
その他の場面でも、やはり靴が目につきました。
自然な歩き方ではないということだと思いました。

何度目かの、山道を下りる場面。
同じ白い靴をはいているのに、目立たないなと感じました。
まさにそのシーンで、夫の寺尾聡が
「寝る前の薬のまなくなったの、いつからだっけ?」と尋ねました。
「あら、そうね。たぶん初めてイワナを釣ったあの日から」と樋口可南子が答えます。
そこから先、彼女はどんどん回復し、自信をつけていきます。

女優さんの歩き方で、
精神の病み具合や癒やされる過程が表現されていたのですね。
あっぱれ~というか、深いというか。

余談ですが、小物にもやたら凝っています。
さりげなくいつも持ち歩いているバッグがエルメスのMMだったり
スパゲッティをのせるお皿がマイセンのブルーオニオンだったり。
だいたい、家の中でくつろいでる時のスカートが、きれいすぎるし!(しわひとつない)
ここらあたりは、全然現実的じゃないぞ!と、ちょっと憤慨していました(笑)

ともかく、いままでよりずっと、人の身体の動き方に目が向くようになりました。
面白いです(^_^)v

お正月来、ふだん会わない親戚に会うことが多いですが、
ちょっとしたしぐさに、この人も年をとったなあと感じたり...
あるいは、あまりに不自然にばたばたと動く人を見ると
この人、ちょっと不安定になっているのかなあと考えてみたり...
ものの見方が変わってきました。

ただ、そう見えてもそうなんだなって思うだけで、
そこに価値判断をつけることのないよう、気をつけたいと思います。

ボディランゲージ 2

| コメント(10)

去年の9月から、AGのカウンセリングセミナーでグループセラピーの実習が始まっていて、
何回か練習させていただいたのですが
もっとも難しいと私が感じたのは、コーディネーターとしての体の動きです。

目の動かし方
体の向き
言葉のタイミング
呼吸

家に帰って、鏡の前で、ひとりでカウンセラーを演じてみました。
「すがた」に気迫がない― (>_<)
何かに気をとられたり考えたりしていると、顔がこわくなる― (T_T)
これでは、この人に任せて大丈夫!
という気持ちになっていただくのはむずかしいな、と思いました。

「つのくに」にお客さんがおられない時は、
交代でカウンセリングの練習をしているのですが
ビデオに撮って「すがた」を検証してみるのもいいかもしれないです。

カウンセラーやコーディネーターは
「ものすごいポジティブ・エネルギーを発し続けること!」
と大きなJ先生に言われたことがあります。

それってアドラー心理学というより、魔法じゃん・・・

とは思うのですが、
とりあえずはBodhisattva smile (菩薩の微笑み)を胸に留めて
がんばっていきまっしょい。

ボディランゲージ 1

| コメント(3)

野田先生、岩山さん、コメントありがとうございました。

岩山さん、ぜひ「お気に入り」に入れて、ときどき見にきてくださいね~(^^)

コメントをつけていただくと
またつらつらと、書きたいことが浮かびます。

補正項の記事に「形と姿」のお話があったのは覚えていましたが
出典が『阿弥陀堂だより』だったとは知りませんでした。

インターネットで調べてみたら、
なんと『阿弥陀堂だより』も、『雨あがる』も、それから『博士の愛した数式』も、
ぜんぶ小泉堯史監督作品でした!

主演はみんな寺尾聡だし
しかも『雨あがる』と『博士の愛した数式』の音楽は加古隆だし。

なるほど、そういえば同じ空気が画面に流れています。
(知らなかったのは私だけ?^^;)

補正項の「形」と「姿」のお話は
「一向説」を「分別説」で説明するというレトリックのお話だったと思うのですが、
正直いって、ぴんときていませんでした。

このまえ『雨あがる』の役者さんたちのボディランゲージを見て
はじめて、「形」と「姿」の意味することがわかったように思ったのです。

現代が舞台の『阿弥陀堂だより』と『博士の愛した数式』を見たときには気がつかないで
『雨あがる』ではじめてはっとした、ということは、
日本映画、しかも時代劇での所作が
私にとっては、とてもわかりやすかったからなのでしょう。

ということは、外国の映画の中のボディランゲージは、
日本の文化の文脈の中にどっぷりとつかっている私には
いまひとつ、その動きの意味しているものをつかみとれない、ということになってしまうのかな。

きっと私には、見逃していることがたくさんあるのだろうなと思います。
ドイツの軍人さん、イギリスの貴族さん、フランスの下町のおやじさん、
という程度の典型的な動きなら、少しは目に浮かぶような気もしますが。
ベルギーに住んでいるあの方なら、どんなふうに考えられるかなぁ?

かたちよりすがた

| コメント(2)

映画『雨あがる』を見ました。

寺尾聡扮する浪人の、すきのない歩き方、剣つかいの見事なこと。
宮崎美子扮する武家の妻の、立ち居ふるまいの美しいこと。

役者さんってすごいなと思いました。
顔かたちって役づくりにほとんど関係ないですね。
いかにその役らしい「すがた」をつくりあげるかなんだなと思いました。

夜鷹の原田美枝子の歩き方、坐り方と
ご新造さんの宮崎美子の所作とは、まったく違います。
手足や腰や頭のひとつひとつの動き方で、
その人の生いたちや暮らしぶりや、こころまでもわかります。

新年の今日、いちにち背筋を伸ばして歩いていました。
すがた美しく暮らしたいと思います。

このアーカイブについて

このページには、2007年1月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2006年12月です。

次のアーカイブは2007年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。