2007年2月アーカイブ

小説の冗長性

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またもや『アカシヤの大連』ですが

いわゆる大事件は起こらないんですよ。
戦中・戦後にかけての物語ですから、終戦という大きな出来事はあるのですが
主人公にとっては、それはあまり大きな意味をもたないんです。
むしろ、周囲の喧噪に比べると、きわめて淡々と日常を送るようすが描かれます。

たとえば

終戦の年のうだるような夏の昼間、
大連の自宅の窓の外、少しはなれたアカシヤの涼しげな並木の陰に、
気がつくと中国の屋台がでている。
遠くから見ると、中国風のお皿やお椀のようすが、とてもおしゃれでおいしそうに見えている。
とか

あるいは、後に妻となる人に出会った頃、
自分の何歩か前を彼女が歩いているところに、偶然行き会う。
彼女の後ろ姿を、歩きながら眺めていた詩人の胸にふと、
「ああ、きみに肉体があるとは不思議だ!」
なんて言葉がわいてくる。
とか

小説のしめくくりにいたっては

「アカシヤの花が散らないうちに、あの南山麓の山沿いの長い舗道で、遠くにかつての自由港がぼんやりと浮かぶ夕ぐれどきに」
彼女にプロポーズしようと「彼は思った」
で終わるんですよ!
「思った」だけで、なぁんにも、起こらないんです。トレンディドラマほどのことすら。

作者はただひたすら、日常の細部の、おもにロマンティックな感動を、
延々と伝えるだけです。

清岡卓行のあと、いま保坂和志の本を読んでいるのですが

保坂さんもまた、特に何も起こらない日常のありふれた日々を、丁寧に丁寧に描いています。
(こちらは、あまりロマンティックじゃないみたいけど)
子どもや猫や友人との些細なやりとりや、考えていることの中に、
ものすごく緻密な観察が介在しているようです。

で思ったのは、
この作家たちの伝えたいのは、日常の中の幸せっていうことなんじゃないかと。
まるで波のように冗長に同じようなつまらない出来事をくりかえす世界の中に
私たちは含まれていて
だからこそ、
死別とか、関係の破綻とか、非日常なものに立ち向かっていけるのじゃないかということ。

ハリウッド映画は、戦争とか死別とか離婚とか、非日常な部分を取り上げますよね。
でも私たちが健康に生きていくために必要なのは、
世界の冗長な部分の側を確認していくこと

極端に言ったら、雨が降っても嵐がきても
戦争に負けても私が死んでも
川は流れ鳥は鳴き花は咲いて世界はこのように続いていく
ということを知っておくことなのかもしれないな
と思いました。

遠来の友

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ヨーロッパから一時帰国している友だちと、
仕事帰りに2時間半ほど、会って話をすることができました。
ほぼ1年ぶりです。

「あまりにたくさんありすぎて、何から聞いたらいいかわからない」と彼女は言います。
聞きたいの?あなたが話すのじゃなくて?
「私は話すことはないんよ。あなたの話を聞きたい」

お互いに、相手の話を聞きたいのでした。

彼女が聞きたいことというのは、自助グループに関することでした。
私のグループでやっていることと
彼女のグループでやっていること。
何をどうしていくのかを誰がどう決めるか
どういう目的でそれをそう決めるのか
などの話です。

それから芸術や歴史や人間の健康さや
身近な家族についてなど
おばさんふたりは大きな声で
「アドラー心理学では」とか「共同体感覚を」などと、喫茶店で語り合い、
2時間半はあっという間に過ぎていきました。

とっても刺激的~でした。
私は自分の主催している自助グループのありかたについて、
あらためて考える機会をいただきました。

ポンクラは、アドラー心理学の拠点・新大阪近郊の、自助グループです。
阪神間というこの地域で私がグループをしていることの意味は
実際のところ、なんなんだろう?と
なんだかしゅくだいが、またひとつ増えたような気がします。

文献抄読会

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久しぶりにAGの抄読会に参加しました。

火曜日は朝9時から仕事で、いつも何時までかかるのかわからないので
たいていは帰宅してから、自宅でパソコンの音声チャットで参加しています。
でもそうすると、けっこう眠くなってしまうんですよね。

昨日は思いがけず早くに仕事が終わったので、遅刻でしたが思い切って行きました。
リアルタイムで参加すると、やっぱりおもしろかったです!

Redundancy なんていう聞き慣れない単語が出てきて、(@_@) なのですが
まあそれはそれとして。

中でおヒゲのN先生の言われたひとことに、認識反射しました。

「ことばで説明できないってことは、やっぱりわかっていないんだと思う」

そうなんだ~~
たしかに、事例検討会などで
「どうしてそう思ったんですか?」と尋ねられて、しどろもどろでうまく答えられないときは、
やっぱりそのことがよく分かっていないんです。
ということが、今になってよく分かります。

去年の9月ぐらいから、大きなJ先生にすすめられて
カウンセリング・レコードの書き方を
従来のSOAPシステムではなく、鳥瞰図的というか略画的というか
アセスメントの部分に工夫をほどこした形で書いています。

ものごとを虫瞰図的・密画的に見る傾向のある私には
いい方法だなと思ってやっていたのですが

これって要するに、
ものごとをアドラー心理学的なことばで表現するおけいこだったのだと気がつきました。

以前は、きまじめに全てのカウンセリングの逐語録を起こしていました。
しかしこれは、クライエントやカウンセラーの言葉を書き起こして再現するだけのことで
体力勝負みたいなところがあって、書いているときにアタマは使いません。
読み直して、
ここの質問が閉じていただとか、この反応はどうしてだろうとか、
密画的に深く反省して落ち込むのですが、
どうも、大づかみに全体を把握することがむずかしかったのです。

アセスメントは、そのカウンセリングを
アドラー心理学のことばで語り直すものでなければ意味がないんだ
と今は思います。

でも私だけが、今ことばを学んでいるんじゃなくて
アドラー心理学の教育って、
みんなにアドラー心理学の考え方(=ことば)を学んでもらうことであって、
アドラー心理学を学ぶと、みんながしあわせになるんです
って。

そういう狂信的なつむじ曲がりに
私もなりたいな
なんて思っているあたり、
すでにつむじが曲がりかけている?

月をさす指

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江ノ島のスピリチュアル・ワークに参加してきました。

欲張りなことに、私は2日目野田先生のカウンセリングの最後のクライエントとなり、
翌日にはその同じデザインで、グループのコーディネーターをさせていただきました。
早期回想を、仏さまの視点で語り直し
そのあと現在の問題を同じように語り直す、というものです。

その体験についてはアドラーネットに少し書かせていたたきましたが、
まだあまりまとまっていません。
ただ、いま何を私は感じているのかというと。

江ノ島で体感したことは
ひとりの方の物語が、その場にいるみんなの共通の物語(伝説)になりえること。
それは密画ではなく、略画の世界。
デカルト的世界ではなく、絶対的全体論の世界。
Compassion、慈悲の青い海。
要するに、♪窓を開ければ~♪の世界です(←居た人でないとわからないでしょうね^^;)。

同じ伝説を語っても、他の人の語りと私の語りとは違うでしょう。
語り方は違うけれど、そのさし示すものは同じ伝説です。

私たちは同じ大きな伝説の中に生きていて
それぞれが違う語り方で違う人生を送っている。
しかしそれぞれの語りが指さしている先は、同じものではないのかしら。
さし示す指が違うだけで、
指の先に浮かんでいるのは、同じひとつの月。

そんなことをぼーっと考えています。

明日は四国地方会に行ってきます。
なにかまた見つけられるかもしれません。
たのしみです。

父のこと・祖父のこと

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農学部に通っている娘は、
自宅で花や野菜を育てるのが好きな私の父と、よく話をします。
「どうしておじいちゃんは、そんなに野菜の育て方をよく知ってるの?」と
先日帰郷したおりに尋ねていました。

戦後の焼け跡で、食べるために豆を育てていたからだと、父が答えました。
焼け跡の土には、家が燃えたあとの灰がたくさん混じっているので、よく育ったのだとか。
農場実習の授業でそら豆を育てたことのある娘と、
豆科作物の連作障害について、話がはずんでいました。

私は小さいころから、父の「焼け跡での豆作り」について何度も聞かされていたけれど、
そんなに興味をもって聴いたことがありませんでした。

娘との話はどんどんひろがります。
「おじいちゃんは、神戸から京都まで大学に通っていたのでしょう?大変じゃなかった?」
省線電車(いまのJR)に乗って行くのだけれど、
高槻のあたりでよく機銃掃射にあって、電車が停まった。
学校に4時間ほどもかけてやっと着いたら、もうほとんど授業が終わっていてね、
なんて、
たいへんなことを父は楽しそうに話します。

父は医学部に在学していたので、徴兵を免れました。
「大切な医学書を、戦後、防空壕に入れてなおしていたら、
神戸の水害のときに、ぜんぶ水浸しになって駄目になった。
あれは、ひいおじいちゃんが、わざわざ東京で手にいれてくれたんだ。
ひいおじいちゃんが両手にひとつずつ、大きなかばんを持って、
それにいっぱいの医学書を買って、持って帰ってきてくれた。
こっちには売っていなかったからね」
あの頃ひいおじいちゃんはほんとうに元気だった、と懐かしそうに語ります。

こんな表情の父を、私は見たことがあっただろうか
私は父に、こんなふうに語ってもらったことがあっただろうか
と、なかば悔やみながら、父と娘を見ていました。

娘は父のことが好きで、
父の関心に関心があって
つきることなく父の語りを引き出します。

そのあと話題は、祖父のことに移りました。
「おじいちゃんのお父さんは、何の貿易をやっていたの?」
「雑貨だな。インドやフランスのおもちゃや、食器、フォークやナイフ。
インド人の友だちがたくさんいたし、インドへも何回も行っていた」
フランスへも行っていたと聞いて、母も私も驚きました。

ばりばり仕事をして世界を飛び回る、若い日の祖父の姿を想像するのは
私にとってはむずかしいことです。

祖父は明治生まれで、身長が170㎝、その時代にしてはとても大きな人でした。
小学校しか出ていなくて、独学で英語を学んだということです。
私の覚えている祖父の家の本棚には、漢文の大きな本がずらりと並んでいました。
古い古いタイプライターが、書斎の机の上にでん!とのっかっていました。
(そのタイプライターは遺品として私がもらいうけました。が、それも震災で失ってしまいました)

長生きしてくれて、
私の息子(いちばん下の曾孫)が産まれた時、タクシーでお祝いに来てくれました。
90すぎで亡くなりましたが、最後まで背中のしゃんとした、かくしゃくとした老人でした。
末の孫の私にはやさしく、男の子である兄や、お嫁さんたちには、きびしい人だったようです(^^;)

上に3人の女の子、下に2人の男の子。
末の男の子が私の父です。
叔父の方は貿易を継ぎ、父だけが医者になりました。

祖父にしたら、父は自慢の息子だったのだろうなあ。
高価な医学書を、戦時中に東京まで買いに行ってやるほど
息子の勉学を応援していたのでしょう。

私が幼いころに、昔の家によく訪ねてきてくれていた
元気なころの祖父と祖母の姿を思い出しました。
そのときのしぐさや姿を記憶の底から呼び起こしてみて、
祖父の、父に対する愛情や期待の深さを
今になってしみじみと感じています。

いくつかのエピソードを語ってもらうことによって、
父も、この世にいない祖父も、ずっと身近な存在になりました。
とてもいとおしく感じます。
そしてその愛情が
父を通して私の上にも注がれているのをはっきりと感じて、
少し涙がこぼれそうにもなります。

閑話休題

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文学と心理療法の話が、私にしたらちょっと高みに舞い上がりすぎて、
あたまが煮詰まってきました。
どのみち、すぐに結論の出るような話ではありません。

ここらで少し、閑話休題(それはさておき話)です。
もし以前のエントリーを読んで何か思われることがあったら、
いつでもけっこうですのでコメントして、思考の手助けをしてくださるとありがたいです。


心療内科などで出すウツのお薬の副作用に、反射亢進というのがあるようです。
脳内物質「セロトニン」が少なくなるとウツ症状がでることが多いので
お薬で「セロトニン」を補うのですが、
逆に補いすぎると、
膝や肘の関節をハンマーで叩くと、ポン!と大きく反射するという症状がでます。

ということは、反射が大きければ、もともと「セロトニン」が十分にあるということなのかなと思い
(しろうと考えです~)
お医者さまにハンマーをお借りして、私の膝を叩いてみました。

けっこう反射しました(^^)
「セロトニン」たっぷりあるみたい。
あんまりウツにならないみたいです。

だって自覚があるのですが、
どちらかというと自分を責めてウツになるというよりも
人を責めて怒るというライフスタイルですから...(^^;)

とはいえ、アドラー心理学を学んでいると
「悪いあの人・かわいそうな私」をやっていて
あ、また私やってるわ、と気がついてしまうと
続けてやっていられなくなって
自己嫌悪になるし、かといって
自分の行動を変えることもなかなかすぐにはできなくて

しなきゃいけないことがわかっているのにできないというのは、
できないのではなくてしたくないのでしょう、という声が頭の中で聞こえてきたりして
こんなときは人と顔を合わすのがまったくイヤになって
じっと動けなくなってしまう時がありますから

以前より、少しは他罰的傾向が減ったかな。
未熟ですが、
人への迷惑度は少し下がりましたよね、きっと。

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