2007年4月アーカイブ

リアリティ・タッチ

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この春はとても忙しくて
ずっと毎日駆け足で暮らしていたのですが、

この連休の前半、あれへ行くのもやめ、これへ行くのもやめ、
ひさしぶりに家でゆっくり過ごしました。

暖かくなったので、出しっぱなしの暖房器具も片づけたかったし、
書こうと思いながら書けていなかった手紙やメールも書きたかったし、
あれしてこれして
片づけなければならない仕事を
ひとつひとつ処理していきました。

さすがに3日目の夕方になると、ほとんどの用事は終わりました。
(がんばったぞ!(^^))
近所へ買い物に出た帰り道、
いつもの路地の木々のみどりが
夕方の光の中で美しく輝いていることに気がついて
はっとしました。

美しい光。
なんてきれいなハナミズキ。
名前も知らない木々や花々が、すべて
葉っぱの一枚一枚、花びらの一枚一枚に光を浴びて、
生き生きと呼吸していることに
こころをうたれました。

このところ忙しすぎたからなぁ・・・
歩いていても、電車に乗っても
いつも何かを考えていて
目の前のものを見ていなかったように思います。

余裕って大事ですね。
マインドをわきに置いて
意識を透明にしよう。
そうすれば、リアリティに触れることができるでしょう。

保坂和志の『カンバセイション・ピース』という長編小説を読み終えました。
2月ごろ、大きなJ先生おすすめの『季節の記憶』を読んで、
それを皮切りに『もうひとつの季節』『猫に時間の流れる』を読んで、
しばらくはまっていました。

『カンバセイション・ピース』は2002年~3年にかけて連載されたものなので
私の読んだものの中では、いちばん新しい作品のようです。

なんというか、これはかなり衝撃です。

うまく説明できないので、文庫本の解説文を少し拝借すると、

― 小説作品というのは、「なにが描かれているか」より「どのように描かれているか」が大事だ ―

ということで、
保坂さんの作品は、この「どのように」描かれているかというところが
ものすご~く緻密で
たぶん渾身の力で構成されていて、
ほとんど何も起こらない日常を描いているだけなのに、
描かれている「なに」に、深~く納得させられてしまうのです。

『カンバセイション・ピース』の「どのように」についていえば、
小説の「場」を作り上げるののうまいこと!
主人公の「私」が少年時代に叔父・叔母・従姉妹たちと暮らした古い一軒家に
41歳になって、妻と友人たちと妻の姪とともに暮らすようになったという
設定なのですが、

その古い家の間取りなど、私も図に書けそうなぐらい。
庭の木の描写など、私もそのまま手をかけて登れそうなぐらい。
裏の空き地から眺めた家のたたずまいも、
夜と昼とで庭と家の印象がちがうことも、
わずかに開いた窓に猫がねそべってこっちを見ていそうな感じまで、
なんともありありとしていて、「場」に引き込まれてしまいます。

もちろん登場人物の性格描写なんかも、すごくて、
何度も、電車の中で読んで笑ってしまいました。

「なに」については、いま私が思うには。。。
・・・限られた命の中で、人は時間と空間の記憶を
かつてそこに暮らしていた人々や動物や庭や、
今ここで共にいる人々や動物やすべてのものから
与えられている・・・というようなことかな。。。

「チャーちゃん」という猫が4年前に亡くなって
主人公は今でも「チャーちゃん」のことを思い出すと涙ぐんでしまいます。
大の大人が?と思うかもしれないけれど、
読んでいるうちに、彼がたえず生と死について考えていることがわかります。
古い家のそこここで、今は亡き叔父さんや叔母さんの声がし、姿が浮かびます。
今飼っている猫たちが、かつてそこにいた猫たちの臭いをかいでいるのがわかります。
「チャーちゃん」の話は、彼の思索のひとつの取っかかりなのかもしれません。

清岡卓行の小説のところで書きましたが、
やはり保坂さんも、愛するものとの出会いと別れを通して
彼が「生き続けるために」、考えて考えて考えて、
この物語を書く必然があったのではないかな、と感じました。

蝉しぐれ

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藤沢周平原作の映画、「蝉しぐれ」を見ました。

少年時代の牧文四郎役の男の子が凛々しくてかわいかった♪
少女時代のふくもかわいかった。

このごろなんだかアドラー心理学の悪い影響で(笑)
あんまり素直に映画が見れなくなっております・・・。

見ていてハタ!と気づいたのは、監督・黒土三男さんはぜったいに聴覚型じゃないなということです。
たぶん視覚型。

物語の展開がとても早くて、場面がくるくると変わります。
シーンのひとつひとつはとても美しくて素敵なのですが、
それが、ぶちっぶちっと途切れて、その間、あっというまに年月がたっていく感じです。

ふくが坂道を駆け下りてくるのを下から見上げるシーンとか
荷車を押すときのふくの顔とか
川辺で指をヘビに咬まれたときの場面とか
監督の伝えたいものが、けっこう視覚情報だなあと思います。

だいたい「蝉しぐれ」というタイトルのわりに、
あんまり蝉しぐれの「音」が耳に残っていないのが不思議です。
蝉しぐれの降りそそぐ中での「画面」の方は、とてもくっきりと思い出すのですが。

これが小泉堯史監督だったら、春から夏、秋から冬への季節のうつろいを
じっくりと固定アングルなんかで撮って
しかもバックに、なにか心に沁みいるような音楽をつけて、
情緒的につなげてくれるのじゃないかなあ~と思いました。

だからでしょうか、結末がいまいち満足いきません。
文四郎とふくさまは、こんなに粘っこく見つめ合ってはいかんやろう。
いさぎよく、美しく終わらねば。
そうやって、うつくしく余韻を残してほしかったなあ。

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桜の咲くころになると

2年前に離婚したころのことを思い出します。

4月6日に離婚届を出して
9日の土曜日に、今の家に引っ越しました。

息子と娘が、少しばかりの荷物を運ぶ手伝いについてきてくれました。

ときは桜のはなざかり。
阪急電車沿いに、みごとに満開の桜が続いていました。
うららかな花見日和の週末、
電車の中は家族連れでいっぱいで

荷物を手にゆられている私たち3人は、
黙ったままで、それぞれの思いにふけっていたように思います。

あれ以来、満開の桜を見ると、そのときの情景が目に浮かびます。
思い出してどうすることもできないのですが、
あのとき、子どもたちはどんな思いでいたのだろうか、と。
申し訳ないような、かわいそうな気持ちがあふれます。

なんてことを思っているのは、私だけで
息子は息子なりに、それ以後の生活の中で桜を位置づけ
(ジャズギターに通う坂道の、桜吹雪の話をしてくれたことがあります)
娘は娘なりに、北国の大学生活の中で桜の花を位置づけているのでしょう。

桜だけでなく、
母親との新しいつきあい方を、彼らは学んでいるのだと思います。


ところで
こうやって、言葉でもって
私の桜のものがたりを語ると

話し出す前にあった漠然としたもの、
せつないような、心苦しいようなもやもやとした感情が、
しだいに形をなしてきて、
「母親との新しいつきあい方を、彼らは学んでいる」という
話に帰結しました。

これが言葉の力なのかもしれません。

「言葉に出す前に思考はない
思考は発話によって初めて生まれる」
と大きなJ先生が力説されていて、まだよくわかっていないのですが、
語っていくうちに、それ以前に思っていなかったところに話が終結することが、よくあります。

たとえ一人で思考していても、そうなのですから、
よい聴き手がいたら、また全く違うところに行きつく可能性があります。
そう考えると、聴き手の責任って、とても大きいです。

まとまりませんが・・・
発話―思考―物語って
こんな感じかな。

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