2007年5月アーカイブ

小説の認知主義と構造主義

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えらいタイトルをつけてしまいました。
抄読会で習ったことからの連想です。
まったく間違って理解しているかもしれません。

まず、清岡卓行おじさんの文章は
ひとつひとつに彼の「想い」が、ぎっしりつまっています。
言葉そのものに彼の「想い」や「情緒」があふれていて、
熟れて甘い汁のしみ出る果実のようです。

たとえば、

「泣きたいほど青い空を、久しぶりに私は見た。大連市区の東南にあたる海岸、老虎灘の丘を歩きながら、冬枯れて落葉した林の上に、どこまでも澄む明るい青を仰いだときのことである。」(『大連の海辺で』冒頭部分)

私はけっこうウェットというか、はまりやすいたちなので
これを読んだだけで、
―そうよね、泣きたいほど青い空って、あるよね~、わかるわぁ~
と、たちまちうるうるすることができるのですが
でも、「泣きたいほど青い空」から思い描くものは、人によって全く違うでしょう。
読者の数だけ「泣きたいほど青い空」の数はあるわけで、そうすると
「泣きたいほど青い空」という事象そのものは、実はどこにもないのです。

しかし清岡おじさんは詩人ですから、
言葉のもつイメージの喚起力を最大限に使って、たちまち私をうっとりさせてくれます。
彼の言葉のひとつひとつに主観が入り込んでいるし、
こちらも言葉に主観をまぜこんで読む。
そうして、まるで「泣きたいほど青い空」が現実にあって、
それを共有しているかのように幻想する。

これがたぶん認知主義。


それに比べて、最近読んでいる保坂和志さんの小説の方は
かぎりなくドライです。
長くなりますが、『大連の海辺で』も2文引用したので、こちらも2文を。

「あの二人の年寄りがああいうところで毎晩夕涼みをしているのは夕涼みが気持ちいいからやっているのではなくて、いままでずっとやってきた習慣だから今年もやっているし来年もやると考えることでぼくは一番納得がいくのだけれど、ある種のリアリティはそうやって習慣を習慣としてつづけることでしか確かめられないものなのではないかと思う。「ある種のリアリティ」というのをたとえば、「生の実感」などと言ってみるといかにももっともらしく聞こえるのかもしれないが、そんなことはぼくは知らないし「生」などという言葉を使った途端にうやむやになってしまうものがあって、ぼくの考えるリアリティというのはそういうもので、毎日同じことを繰り返すというその確認作業のようなものの中にしかないリアリティというものがある。」(『東京画』)

保坂さんの小説の書き方は、
レヴィ・ストロースからの連想ですが、人類学者的だと思います。
未開の原住民の行動を初めて観察した人類学者のように、
この前の段落では「あの二人の年寄り」の行動をおどろきとともに描写し、
ここではそれに考察を加えています。

また、「リアリティ」や「生」という言葉をとても用心深く使っていて
抽象語の中に、主観や認知がはいりこむこと、
言葉が情緒的な意味を含んでしまうことを、極力避けているように思います。

自分の中にも世界の側にも、「絶対にこれが真実」というものはない、
ただまわりで起こる出来事を、おどろきの目でもって観察し
そこに、ある法則性を見つけ出そうとしている。

これはたぶん構造主義。


自分の現実と他人の現実はちがうのに、
あたかもそれが同じであるかのように魔法にかけてしまう
清岡おじさんの小説のような心理療法もあると思うし

自分の現実と他人の現実はちがうから
他人の現実を裁くことなく、比べることなく、
いったいこの人の現実はどういうものなのだろうか?
というところに関心をもつ、保坂さんの小説のような心理療法もある。

構造主義は、思想というか、世界に対する「かまえ方」ですから
学んでも、ついうっかり認知主義的に、
共有できる何かが存在するみたいに、話を聴いてないのに共有したつもりになっていたり、
正しい何かが存在するみたいに、どうしてこうしないの?と批判してしまったりします。
ドライだし、まわりくどいけど、
たぶん構造主義の考え方の方が、人にやさしくなれるのかもしれないです。

五盛陰苦

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四苦八苦といいますが、
八苦とは、いわゆる生老病死の四苦に、
怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五盛陰苦の四つを併せたものと
5月3日の補正項にあります。

「目的地になかなかたどり着けない」という私の苦は、
五盛陰苦とよばれるものです。

この苦を除きたければ、私は、
この苦のもとになる邪悪な意志、
すなわち「目的地に着こうとする」ことを
やめなければなりません。

アドラー心理学では、代替案を出すことが多いです。
目的地に着こうとするのをやめるって、具体的にはどう行動するの?
と、自問自答してみると

たとえば、遠くの目的地ばかり気にするのをやめて
途中の道をよく見ようよ。とか
その日その日を丁寧に生きようよ。とか
いまこのときを楽しもうよ。とか
そういう方向の代替案が出てきて・・・
だけど、

それをやってしまっては、
もとのもくあみなんだ!!


だって今度は、途中の道をよく見ることとか
その日その日を丁寧に生きることとか
いまこのときを楽しむこととかが
目標になってしまうから。
同じカルマの堂々巡り。

アドラー心理学ではありますが、スピリチュアル・セラピー(GD#4)では
代替案は出ません。
目的地に着こうとするのを、やめるだけ。
ただやめるだけで、他に何か行動「する」ことは御法度なのです。

ただ、
やめれば、ひょっとしたら結果として、
途中の道の花がよく見えるようになるかもしれないし
その日その日が至福の日々になるかもしれないし
いまこの一瞬が美しい蓮華国になるのかもしれません。
が、それを目標にしてしまうと、また同じ苦に陥ります。

・・・アブナイアブナイ。

でもね、スピリチュアル・ワークから帰ってきて・・・
たとえば英語のレッスンに行く前とか
抄読会で発言しようかなっていうときとかに、
ちょっとドキドキするんです。
そういうとき、あ、私はいま、別の自分になりたがっていないかな?
って、問いかけることができるようになりました。

そうすると肩の力が抜けて、無駄な努力をやめられます。
ほんとうに、いつもいつもいつもいつも私って、
これをやっているんだなあ、と
これは五盛陰苦だなあ、と
気がつくだけで、ものすごく違います。

いい瞑想になっています。

目標追求性

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おととい、高知のスピリチュアル・ワークから帰ってきました。

私は
目的地に達するか達しないかに、とらわれています。
達しないこともあれば、達することもあるのですが、
その結果がとても大事だと感じています。
いまの自分ではない、べつの自分に到達したいと願い、
いつもそれを力にして、歩いてきました。

小さいころ、家の近所をひとりで散歩していて
思いがけない路地から川原に、たまたま、たどりついたことがありました。
ところがその後、なんど試しても、
いつも迷ってしまって川原に行き着けないのです。
(方向音痴の早期回想ですね!)
もう一度くらい、同じ川原に着いたことがあるような気がしますが、
それは、夢だったのかもしれません。
ただ、その川原の景色だけ覚えていて、
途中の路地をまったく覚えていないのです。

ここからわかる私の「苦」は、
「目的地になかなかたどり着けないこと」!
その「苦」をなくしたいのなら、私が取り除かなければいけないのは、
目標を達成しようとすること。

私は遠いあこがればかりに目をやっていたので
道ばたの花になかなか気がつきませんでした。

川原に着こうとする努力をやめてみる。
そうすれば
道が見えてくるでしょう。

目標達成がよいとか悪いとかということではなく、
そこにとらわれているという構造じたいが
私の「苦」を生みだしているのだと気がつきました。


今朝、住宅街の喫茶店で友だちを待ちながら
大きな窓から
行き交う人々をながめていました。

道行く人をながめていると、
どの人もとても急いでいて

雨上がりの美しい五月の朝なのに
道ばたの花に目をとめる人は少なくて、
とめてもすぐに遠くに目を移して
なにかを見据えるようにして、通りすぎていきます。

私だけではなく
どの人も、この社会ではおそらく goal oriented.

そこから脱けだすために
できることは、
やはり瞑想しかないのだとわかりました。

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