2007年6月アーカイブ

ワルキューレ

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抄読会でほんの少し、
ワーグナーのオペラ、『ワルキューレ』の中の
ある場面のことがふれられました。

それはかの有名な曲、「ワルキューレの騎行」が演奏されるところとは違う場面で、
だけど、たしかとってもドラマティックな場面だったと覚えていたので、
急に見たくなって、DVDを借りました。

ジークムントとジークリンデ(実は兄と妹)が出会ってから旅立つまでの第1幕です。

音楽、特にクラシックのことは、よくわからなくて、
とても乱暴にまとめてしまいますが、

前奏から、「何かがおこりそう~」と予感させる悲劇的な低音で始まり、
ふたりが出会ったとたんに、それが、がらりと美しいロマンティックな調べに変わり、
その間にも、ジークリンデの夫が帰ってくると音楽が緊張し、
ふたりの父親(実は神)の話がでると、この神の主題曲が少しだけ奏でられます。
いわくつきの剣の主題は、しだいに高まり、
春がやってきてからは、
ものすごくドラマティックなクライマックスになって、
ふたりは手に手を取って駆け落ちしてしまうのです~
(ええんかいな!と、いつも突っ込みたくなります)

ワーグナーは構造主義的だということですが、
気をつけて聴くと、さいしょは「なんだか印象的~」って思ってただけの曲が
繰り返されるうちに、文脈のなかで
なにか(春とか特定の人物とか剣とか)を指し示していることがわかってきます。

たとえば、最初はささやくように鳴っていた旋律が、
その剣の由来が明かされるところにくると
パーンと高らかにトランペットで奏でられ、
「おお、これがその剣だったのか!」などと聴いている者は納得し、

大げさな言い方をするならば、このオペラの神話世界の構造が
部分的に見えた!と思えるのです。

神話って、構造が見えないと全然おもしろくないですね。
どの子がどの神の子で、誰と誰とがくっついて、
あの悪党は、実はあのときあの神に苛められていたやつだった、とか。
今、この神が困っているのは、実はあれが原因だったのだ、とか。
物語の構造がある程度わかると、けっこうはまることができて、おもしろい。

作曲家のすごいところは、言葉ではなく音でもって
因果関係というか、文脈というか、構造を、見せてくれるというところかな。

などと、楽しんでいましたが
なんせ1幕だけで60分もかかるので
とても続けては見られない。もう寝ます。

『アドラーの思い出』2

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先週の土曜日に、両親に本を持って行きました。
なんせ、この不肖の娘の名前が、のっているんですからね。

俳句をやっていて、自費出版の本をよくもらっている母は、
なんだかよくわかっていないみたいで、

ハードカバーの本をながめて
「この本つくるのにいくらぐらいかかるの?」と言ってみたり
(ちがうって。お金入ってくるんだよ―)

奥付に私の名前がのっているのを見て
「いちおうあんたものってるんやね」と言ってみたり
(のってるから持ってきたんやん―)

とんちんかんなことばっかり言うので、ちょっとがっかりしてしまっていたのです。

が、きょう、メールをくれました(これでもけっこう、携帯メールをする母なのです)。

「一気に読みました。だんだん面白くなり最後まで読みました。
81pの蛙の話に感動。155pの最後では思わず――
全体に読み易いのは、きっと訳者が上手なんでしょうね(^_^)
頑張りましたね。おめでとう!!」


ものすごく!うれしかったです。
ごめんなさい、子バカみたいですね。

触覚型の功徳

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最近、あちこちの自助グループを見学させていただく機会が多いです。

野田先生にさきに書かれてしまいましたが(6月6日補正項)
いやぁ、このあいだはびっくりしました(@_@)(@_@)

触覚型の力を、私もぜひ手にいれたいなあ!と思ったのです。

まず、その発言の迫力。
言っちゃわるいが、話は長い。
話のふらつきは、尋常ではない。
どこで話が終わるのか、どこで次の発言が始まるのか、まったく計れない。
しかし!

まとまらない話は、その長さだけで熱意が伝わるのでしょうか。
ひとことひとこと、役者が「みえ」を切るように、思いがこもっているからでしょうか。
熱いんですよね~

そして私の観察するところ、どうやら触覚型の発言こそが
その場の流れを決め、
人のこころを打つように思うのです。


迫力に加えて、次にあこがれるのは演技力。

ロールプレイのうまさは、まさに絶品です!

先日、ロールプレイで迫真の演技を見せてくださった方がおっしゃるには、
「すーっと」「しみとおるように」、その役の思いが「入ってきた」ということ。
ほとんど憑依の世界です(*_*)

実は、そのロールプレイ、観察者として見ていただけなのに、
私もぽろぽろ泣いてしまったほどの出来映えだったのです。

触覚の方の演技は、むしろ台詞があまりきちんと決められていなくて
アドリブでやるときの方が、うまくいっているように思います。
雰囲気をつかむのが、上手なんですねえ~

台詞にとらわれてしまう私なんて、まったくの大根役者です。
雰囲気を肌で感じとれるのって、才能ですから
あんな演技をできるようになるのはムリですけど

でもあの話術はほしいなあ。
私はわりと淡々と、早い段階で話をまとめてしまう傾向があって、
ゆっくりと相手のこころを揺さぶるような熱のこもった話し方って、できないんですよね。

ポイントは「ことばに力をこめる」とか「たっぷりみえを切る」かなぁって思ってるんですけど
どうなんでしょう?
演技的に、あるいは神話的に話す、といえばいいのかな。
ムリかなあ。
でも、あこがれるなあ。

『アドラーの思い出』

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訳者のひとりとして関わらせていただいた初めての本が
出版されました。
訳出のほとんどの労力は、柿内さんに負っています。
また美しい日本語になるよう手直ししてくださった野田先生、
ありがとうございました。

それはそれとして「井原文子」という名前が、本の表紙にあるのをみて、
とても不思議な感じがしています。
そして、すっかり忘れていたことを思い出しました。

じつは娘時代(つまり今の名字の時代)に、
私は翻訳家になりたいという野望をもち、
通信の翻訳講座で二年ばかり学んだことがありました。
海外留学もしたかったのですが、
けっきょくは外にでることなく、結婚して主婦となり、子どもを産みました。

あのときやりたかった勉強を、もっとずっと続けていたら
まったく別の人生を生きていたかもしれません。

だけど、それなら、
いま私が誇りに思っているふたりの子どもたちに出会うことはなかったし、
あの子たちに出会わなければ、アドラー心理学に出会うこともなかったでしょう。

1/4世紀を経て
私はなぜかまた娘時代と同じ名で
英語とアドラー心理学と、
学んできたことの両方を、少しばかり役立てることができたようです。

結婚をして子育てをしていた時期を、人生の第2ステージだったと考えると、
いままた娘時代の名前にもどった私は、
人生の第3ステージにいるといえるのではないでしょうか。
大きな流れでみると、ずっと若いころの夢や願いが
今になって、つぎつぎと実現してきていることに、めまいを感じるほどです。

第2ステージは無我夢中で過ごし、過ぎ去ったのですが、
実はこれこそが、ほんとうに大切で必要な時期で、
かけがえのない出会いのほとんどすべてが、
この時期に起こっていたのではないかと感じています。

年齢を重ねたからこそわかるのですが、
なにひとつ、無駄なことは起こらなかったのではないかしら。
(われながら、おばあなことを言っているな)

なにはともあれ、いい本です。
買ってくださったら
柿内さんと野田先生と私とに、印税がはいります!(^-^)v
どうぞよろしくお願いします。

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