2008年5月アーカイブ

カッワーリ

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たま~にポンクラに来てくださるメンバーさんのブログを拝見していて
またなにやら面白そうな音楽を知りました。

カッワーリ Qawwali というのは
イスラム神秘主義スーフィーの人々の
神聖な神への賛美の歌なんだそうです。
その中でも、10年ほど前に亡くなった
ヌスラット・ファティ・アリ・ハーン Nusrat Fateh Ali Khan という人の
大衆からの人気は絶大だったそうです。
冒険だなと思いながらも、"Shahbaaz"というCDを注文してみました。

連休中に届いたのですが
以来、すっかりはまっておりまして、
実はそれから欠かさず、毎日聴いているのです。
あまりに非日常的な音楽ですので、
ここに書くのをしばらく自粛していたのですけど・・・
えい、書いちゃぉ

使っているのは、タブラという打楽器ひとつと
ハーモニウムという、たぶんアコーディオンみたいな楽器がふたつだけ。

ものすご~~くテンションの高い
テンポの早い、力強い、血管のきれそうな
ヌスラットのボーカル!
もうひとり親戚筋みたいなの人のサブボーカルと、
あと男性ばかりのコーラス隊が6人。
それと、最初から最後まで切れめなく続く手拍子!

聴いていると自然に、
スーフィーのワーリング瞑想が、またやりたくなってきます。
天井の低い我が家でやったらすぐに倒れてしまいそうなのでまだやっていませんが、
イメージの中では、聴きながら旋回しています。

たぶんウルドゥー語というのでしょう、
パキスタンの言葉で、何を言っているのか全くわかりません。
解説によると
Lal Shahbaaz Qalandar(赤い鷹)というスーフィー・マスターを讃えているようですが
ヌスラットの歌う歌詞は、ごろ合わせがあったりそのたびに違っていたりして、
その場にいる聴衆と文化や時代を共有していないと分かりようのないものみたいです。

そんなふうにわけわからないのですけど、
なんというか、ものすごいエネルギーの音楽なんですね。

おすすめはしません(きっぱり!)
おだやかな癒やし系では、決してありません。
息子に聴かせたら、3曲目ぐらいで
「消していい?」と言われてしまいましたよ(^^;)
おかしいな~

テクストの分析と解釈2

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先週の土曜日、AGのカウンセリング講座に参加しました。
3回連続「物語分析」の講座の最終回です。
あーでもないこーでもないと、ご一緒に頭を煮え詰まらせたグループのみなさま、
どうもありがとうございました。

今回とりあげられたのは、仏典「大般涅槃経」の中から
お釈迦さまの亡くなるちょっと前、
弟子のアーナンダとの間におこった物語でした。

なにがむずかしいと言って、まず
私たちは仏典の書き方に馴染みがありません。
繰り返しがとても多いし
どこまでが登場人物の言った台詞か、筆者(経典作家)の意見かを見分けるのに
最初の1時間ほどを費やしてしまいました(^^;)

しなければならないことは、ここで起こっている物語の構造を分析し、
アーナンダという人物におこった物語(エピソード)の構造(ライフスタイル)を
分析することだったのですが・・・

今だから思うのですが、ほんとうは同時に
物語の分析とライフスタイル分析とを
並行して行わなければならなかったのでしょうね。
そのときは、よくわからないまま、
私としてはアーナンダのライフスタイルに突入していました。

そうすると、表面に起こっている出来事の繰り返しパターン
(=アーナンダの「だから私は~しよう」)は見えるのですが
アーナンダの劣等感(=「私は~だ」)を、
ごく「大まかに」しかつかむことができませんでした。

いつも、ここでつまずきます。
的確に一言で、ずばりと核心をつくことができません~(お下手!)
まあ、これができたら心理療法士さんなんだから、
私ができなくて当たり前なんですけどね。。。
(と、自己弁護)

この物語がいったいどういうことを伝えようとしているのか。
仏典なのだから、経典作者の意図しているものは何なのか。
そういう視点が全く抜け落ちていて、
テクストの細かい部分にこだわって読んでいました。
テクスト全体を、おおづかみに見渡すことをしていなかったのが
最大の失敗原因だったのだと思います。

これはほんとうに、やっぱりいつもの私のパターンで、
エピソードや早期回想(=テクスト)の「部分」に捕らわれて
「全体」を眺められなかったときに、読み間違いが起こります。

で、何時間かの悪戦苦闘の末、野田先生の解釈
(アーナンダの劣等感は、ズバリ「私は学び足りない」でした)
をお聞きすると、
アーナンダの行動の謎も
お釈迦様の行動の謎も
物語全体が伝えようとしていることも、
すとん!と、あっけなく腑に落ちるのでした。
おお~(@_@)

なんでこんなことができるんだろうなぁ。。。

要するに
部分も大事
全体も大事
テクスト読みってむずかしい!

誓願

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菩薩が仏道を求めるとき、最初にたてる誓願を
「四弘誓願(しぐせいがん)」というのだそうです。

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

まず、よるべない迷える衆生を必ず救うことを誓い、願いをたてる。
次に、自分がいかなる者かということを知り、煩悩を断つことを誓う。
それから、尊い仏陀の言葉(dharma)を学び、賢くなることを誓う。
最後に、仏の道(marga)を行くため、毎日の暮らしをていねいに行う。

この順に、人は成長していかねばらないものだそうです。

人々を救おうという最初の誓願がなければ、
いくら反省し懺悔しても
どれだけ技術を積んで賢くなっても
毎日お掃除して清らかに暮らしてみても、
ただそれだけのことで
仏に向かうという方向性はありません。

もっともなことです。よね。

ですが、いったんこれを自分の身にひきつけて考えると、
ことはそう簡単ではなくなります。

快・不快をはなれ
欲望を捨て
常に人々と分かち合い助け合うことを、誓うことができるでしょうか。

あるいは、戦時でもこの誓願を選び続けることができるでしょうか。
国の未来のために、たとえば子どもが軍隊に入ると言い出したら、
それを受け入れられるでしょうか。

き、きつい!(>_<)
私のようにエゴの肥大した者にとっては特に・・・

でも
ほんとうにありがたいことに
私は和尚 Rajneesh の弟子なので、
誓願をたてないという選択肢は、ないのです。

誓願とは、サンスクリット語では
Bodhi-chita「菩薩の知恵」という意味だそうです。
chita とは mind の意味で、
まだハートが開いていない段階でたてるものですから、この言葉が使われます。

人は、人を救うこと、
人と分かち合い助け合い暮らしていくと誓うことで、
はじめて菩薩になれるのでしょうね。

菩薩は、
誓願をたててからも
何生も何生も何生も、一万回ぐらい生まれ変わって、
やっと悟りを開いて仏になるのかもしれません。

旅は、ですから
まずは誓願から始まります。

できるできないを考えるよりも、
その方向に生きていこうと決めること。
人生への意志が、すべてを変えていくと
信じようと思います。

幕張SW

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5月3日から6日まで
千葉県幕張市で行われたスピリチュアル・ワークに参加してきました。

お仕事の関係で、ここ2年ほどは
ほとんど全てのスピリチュアル・ワークに参加していますが
毎回、雰囲気や学ばせていただくことがほんとうに違っていて、びっくりします。
今回は、いつもより長い3泊4日だったということもあり
また、今ちょうど新たな課題が来ていたこともあり、
ぐっと深い・・・深~いものとなりました。

つくづく思い知ったのは、
私はほんとうに執着の強い人間だということです。
いや、それはそれはすごいものでした(*_*)

「子育てはもう終わり」・・・なんて言ってはいても
やっぱり何かあると激しく動揺して、
なんとかしようとマインドがフル回転します。

私は子どもと精神的にとても深くつながっているので
(つまり、子離れができていないので)、
子どもが私の手助けできないところで
苦しいめにあってしまうかもしれないことを考えると、
まるで身の一部をべりべりっと引き裂かれるように、
ひどく痛みを感じてしまいます。

「子別れ」が今のテーマであると強く感じていましたので
スピリチュアル・ワーク中、瞑想する機会のあるたびに
このことをじっくりと観ていくことにしました。

すると出てくるわ出てくるわ
涙といっしょに数々の美しい思い出が。。。
子どもたちと過ごした日々
子どもたちと過ごした空間
私にとっての聖なる物語が、次から次へと思い出されるのでした。
家を出るときに、自分から別れを告げたはずなのに・・・
いや~このような瞑想は痛かったです!

先生は瞑想中 Deva Premal の Moola Mantra をずっと使っておられました。
この曲は、ひどくハートに効くのです。
どんだけ泣かすんかい!と思わずつっこみたくなりましたね。。。

3回瞑想して、3回エンエン泣いて
3日目の瞑想のときに、やっと
何か憑きものが落ちたみたいに、すっきりしているのを感じました。

「風」や「波」は、目に見える「もの」としては存在しません。
「風」や「波」は、「こと(現象)」として、世界との関わりの中に存在しています。

そこに思いが至ったとき
私の命も子どもの命も
すべて全体との関わりの中で生かされているのだから
「私」の執着すべきものではないと
感じられるようになりました。

私たちはみな、同じ大きな世界の中に組み込まれているので
くっついていようと離れていようと
全体から観たら
あまり大きな意味はないようです。

私は実は私のものではないし
ましてや子どもも、私のものではない。
ただ縁があったおかげで、共に美しい日々を過ごすことができました。

すべては流れ去っていきます!

できることは、過ぎた日々を懐かしむことではなく、
これから毎回、出会うたび
新しい関係を作っていくことなのでしょう。
そしてそれがまた、いつか美しい思い出に変わっていくのでしょう。

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