2008年10月アーカイブ

磊磊峡

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第25回アドラー心理学会総会で
仙台の秋保温泉というところに行ってきました。

ホテルのすぐそばに磊磊峡(らいらいきょう)という峡谷があり
最終日の朝に、遊歩道を歩いてみました。

3日間お天気にめぐまれ、思ったより暖かかったのですが
谷の木々はすこし紅葉し始めていました。

切り立った垂直の岩が続いて、その下のほうに
ものすごく透明で深い川が見えます。
3筋の滝が流れ落ちている所からしばらく行って少し降りると
ため息のでるぐらい美しい場所がありました。

下の川の水はあくまで深くみどり色に澄んでいて、
見上げる岩の上には雑木林があって、そこから
色づいた葉っぱが1枚ずつ、ひらりひらりと散っていました。

おそらく峡谷全体のまだ入り口あたりなのでしょうが、
けっきょくそこから動けなくなってしまい、
午前の演題の始まる直前まで、その場に釘付けになっていました。
この光とこの木々とこの流れに出会えたのは、
まるでプレゼントのようでした。

谷に斜めに射し込む朝の光が
ゆっくりと舞い落ちる黄色い葉っぱに当たります。
小さな葉っぱは1枚1枚、きらきらと輝きながら落ちていきます。

流れにのって下流までいく葉っぱもありますが
川べりの岩の上に着地する葉っぱもあります。
それでもそこでまた土に還り、次の植物を育てる栄養となり、
そうして生まれた葉っぱもまた散っていくのでしょう。

葉っぱは次々に舞い落ちますが
まわりは何も変わったように見えません。
鳥は啼き、川は流れ、木はそよぎ日が射しています。

sendai.jpg

こんなふうに人も死んでいくのだなと感じました。
私たちも今この瞬間、光を受けながら
ひとりひとり舞い散っているのかもしれません。
どこに落ちようと次の生を育てていくことに変わりはないし
世界はそのまま続きます。

今回の総会は、内容がたいへん充実しているばかりでなく、
美しく輝く方々がたくさん育ってきておられると感じました。
特にこの散歩のあとは、お会いする方々がみんな眩しく輝いて見えました。

不思議なことに
とってもスピリチュアルに感じた総会でした。

「何を学ばれましたか?」

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カウンセリング・ネタで書くと
このブログの話題が、あまりに特化してしまう気がして
少し遠慮していたのですが

大きなJ先生に「なにを今さら」と言われました。
「あなたのブログの話題は、すでにじゅうぶん特化している!」(笑)
いや、ごもっとも。

私なんかがカウンセリングについて気づいたことをあれこれ書いても、
こんなこと、多くのカウンセラーの先輩たちから見たら、当たり前のこと。
カウンセリングに興味のない方から見たら、どうでもいいこと、ではないかと思います。
でも、こんな七転八倒が文章となり人目にふれることはなかったみたいですので

まあ今までどおり
読んでくださっている方々のことはあまり気にせず(^^;)
書きたいことを書かせていただくことにします。
以上、言いわけ。


事例検討会で事例を出すときに
「私が『前回、何か気がついたことはありますか?』とお聞きしたら~~」と話し始めたら、
先生に、すかさず、「その聞き方はよくない。
『前回のカウンセリングで何を学ばれましたか?』と聞きなさい」
と言われました。

そのときはそれだけだったのですが

ああそうか、何を学ばれましたか?って聞くんだな。。。
なんでだろう?

としばらくぶら下げていましたら

これは、カウンセリングの構造の話なんだって気がつきました。

たとえば2回目のカウンセリングの最初に
「前回のカウンセリングで何を学ばれましたか?」と聞いても
クライエントさんは「えーっと、そうですね、すいません、特にありません」って
きっとお答えになるだろうなあ(だって前回のカウンセリングで
そんなに学んでいただいたとはこちらも思っていないので)、
だから私は「何を感じましたか?」とか「何か気づかれましたか?」
などという聞き方をすることが多かったのです。

でも、最初クライエントさんが
「特に学んだことはない」ってお答えになるのは当然なのです。
だって、カウンセリングで何かを学ぶなんていうふうには、
普通、クライエントさんは思っておられません。
アドラー以外のカウンセリング、心理療法では、
傾聴とか共感、とかが主流ですからね。

毎回しつこく「何を学ばれましたか?」とカウンセラーが問いかけることによって
カウンセリングは何かを学ぶ所なのだな、ということが
初めてクライエントさんに伝わります。
アドラー心理学のカウンセリングは学びの場だという構造が
この一言を繰り返すことによって作られるのです(@_@)
だから、いつもこのように聞かなきゃいけないんです。

それで、昨日は
「こんにちは」のご挨拶のあと、さっそくクライエントさんに
「前回のカウンセリングで何を学ばれましたか?」と問いかけてみました。

おひとりは
「えーっと、学ぶ、ですか、いや、考えていなかったので」と戸惑いながらも
「少し客観的に見ることを学んだかなあ」と答えてくださいました。
もうおひとりは、なんだか全然ちがうお話をされましたが
それはそれでかまわないんですよね。
「学ぶ」ということを学んでいただくプロセスなのですから。

いまさらながら、カウンセラーが
ひとことひとことをどれだけ大切に扱わなければならないか、
体験として分かり始めたような気がします。

気迫と技術

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先月半ばから、大阪のとある心療内科で
主にライフスタイル分析を中心としたカウンセリングをさせていただいています。

なにぶん未熟なものですから、どうにかこうにかやってはいますが
1日が終わってから
あれ?これでよかったのかな?
私、間違ったことしてないかな?
次にどう動けばいいんだろー??
なんてことが、多々起こります。

それで、事例をもってアドラーギルドの事例検討会に出て
諸先輩や先生方から貴重なご意見をたくさん伺い
勉強させていただいています。

さて複数の方から、
別の事例で、まったく同じお言葉を頂戴しました。
これって、絶対、今の私に欠けているものなんですね。

それは、ドライカースの言葉
Win the patient!
直訳すると「患者に勝て!」

私の解釈では

クライエントの筋に乗ってはいけない
どんなときもカウンセラーの筋をつらぬけ!

あるいは、もっと平たく言うと

気迫ですよ、気迫!

ってことかなと思っています。

私は昨年ICASSIに行って以来、
アドラー心理学への信仰度?がぐっとアップしました。

アドラー心理学には、世界をひとつにする力、世界を幸福にする力があります。
私の残りの人生のお仕事は、アドラー心理学を学び続け、伝え続けることだと
そう信じるようになりました。

しかし、私は自分の技術の未熟なことが劣等感のひとつなので、
アドラー心理学を全く知らない方にそれを伝えるカウンセリングのようなとき、
つい遠慮して、相手の筋に乗っかってしまうことがありました。
(パセージのときはテキストがあるから、ある程度気迫出せるような気がします)

結果的に、本来の目標に向かわない
クライエントさんのお話を、延々と聞いてしまったり
その場しのぎの代替案を考える方向に進んでしまったり
クライエントさんの感情に動揺してしまったり。

何が本来の目標かというと、それは、
クライエントさんの求める当面の問題の解決ではなく、
クライエントさんにアドラー心理学を学んでいただき
今よりももう少し世界に貢献する方向に成長していただくことだと思います。

Win the patient・・・

私は、気迫は技術に伴うものだと思って、いっしょくたに考えていましたが、
気迫と技術は別ものと考える方がよいのかもしれません。
気迫を出すためにはまず技術を磨かないといけないとか
技術がない者は気迫を出してもどうせ通じないだとか考えていたのでは、
これもまた、劣等感を言いわけにした逃げになってしまいます。

技術の未熟さは、時間をかけて、学んで向上させるべきもの。
しかし気迫は、技術とは関係なく
今、このとき、信じることによって得られるものです。
きっと、私の心持ちひとつで。

そう思い至ってから
ポンクラのメンバーさんにいただいたワシ(=ドイツ語でadler)の飾りを
カウンセリングのときのお守りに、こっそり使わせていただいています。
つけていると、普段よりもプラスのエネルギーをたくさん出せるような気がするんです。

呪物の力を借りないと足らない気がするあたり、
やっぱ、まだだいぶ気迫足らない?
うーん(>_<)ぐぁんばるぞ!

This too will pass

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9月に熊本であったスピリチュアル・ワークの初日
「もの」と「こと」の講義を聞きました。

「もの」は変わらないもの。
「こと」はうつりゆくもの。

水という「もの」があって、そこに力がはたらいて波という「こと」が起こります。
空気という「もの」があって、そこに力がはたらいて風という「こと」が起こります。
炭素etcという「もの」があって、そこになんらかの力がはたらいて細胞ができ
人という「こと」が起こります。

そんな講義をもとに、テーブルごとに話し合いをしていると
野田先生が Osho Neo-Tarot を手に現れて
私に1枚ひくようにおっしゃいました。
ひいたのは Mastery of Moods というカード・・・

強い隣国に脅かされてウツになった王様は、魔術師から
「いかにでも気分を変えることのできる魔法の指輪」をもらいました。
いよいよ最後という時まで、決して
指輪の中のメッセージを読んではいけない、という約束で。
さて月日は流れ、敵兵に追いつめられた王様は、
いまわの際に、ついに指輪の石の下のメッセージを読みました。
書かれていたのは、ただひとこと
This, too, will pass 「これもまた過ぎゆく」だった・・・というお話です。

せっかくのお告げだったのですが、その時私はあまりピンとこず
「ああ、気分も生老病死も『こと』っていうことなんだな」と思っただけでした。


先日、出勤前の瞑想の時間に
ふとマインドが
「きょうは久しぶりに息子が来るわ♪」とささやきました。

すると突然、
This, too, will pass(これもまた過ぎゆく)
というフレーズが浮かびました。

そうなんです。
息子との時間も、また過ぎゆくのです。

誰かを待つこの時間も
誰かに会うという出来事も
誰かからもらう喜びも悲しみも
あるいは私や人、すべての人間、すべての生き物、
This, too, will pass.
風や波のように、大きな力の中で起こる「こと」は、
すべて過ぎてゆきます。

一気に
視野が広がるといいますか、
感じ取ることのできるからだの周りの世界が広がって、
またもや大きな手に包まれているような
めくるめく感覚を味わいました。

こういうとき人が感じる情感を、どういう名前で呼んだらいいのでしょうか。
ありがたさ
いとおしさ
よろこび
もったいなさ

私はいつも美しい桜の木の下にいて
そのことにやっと気がついてきました。
その桜はいつもはらはらと散り急いで
決して同じ姿ではないのです。

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