2009年7月アーカイブ

まず受けいれる

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秋田・大曲で行われたスピリチュアル・ワークに参加してきました。
2泊3日、たいへん濃い時間を過ごさせていただきました。
ライフスタイル診断をふくむカウンセリングや講話を聞きながら
たくさんのことを感じ考えていました。
で、しつこいようですが、もう少しだけ同じテーマを続けます。

ライフスタイルを知るまでは、
人は自分の考え方や行動のパターンを漠然としかわかっていないので
無意識に同じことをくり返しています。
でも、言葉にしてライフスタイルをつかまえたときに、
人は、自分のことをはじめて「理解」します。
ドライカースの言葉で言えば、
ライフスタイルは私たちの使える道具となり、
私たちが人生の主人公となります。

また人は、異なった背景をもった人と出会ったとき、
人は自分と違うライフスタイルをもっているんだ、違うんだ、ということを知ります。

違いがあるということ自体は事実なので、
善悪や好悪のような意見を、くっつけなくてもいいことです。よね。

「あぁこの人は私と違うんだな」って、ただ思う。
ただ「違っている」という事実を認める。
それが、うけいれる、ということではないでしょうか。

次に、では、この人と自分とは、どう違っているのか。
その違いを知ろうと思ったら、たぶん話し合うことが必要です。
どこがどう違っているのかということを理解するために。
理解することによって、共存していくために。

だってケンカしたり、同化させようとしたりするのは、子どもっぽいことですもの。
相手とうまく付き合っていくためにどうすればいいのか、
大人の私は工夫しなければいけません。

だから、この人と私はどこがどう違うのか、それを理解するための話し合いが
ここから始まります。

むかしNASAPでユダヤ人の先生方が、感情的にならずに
あくまで討論を楽しんでおられたのを思い出します。
結論を出すことが目的なのではなく、
お互いの意見を交換しあうことそのものが、討論の目的だということを、
私はあのとき、初めて知りました。
相手の意見を理解するために、徹底的に質問して聞いていく。
その中でこちらの意見も、より明確になっていく。

人と自分の違いを学ぶことは、自分が何ものであるかを学ぶことにもなります。
また自分が何ものであるかを知ることが
人がどうであるかをよりよく知ることにつながります。
話し合うことや、共通の体験を重ねていくことで
相互作用で、お互いがお互いをより深く理解していくことができます。

だから、うけいれた段階で、まだなんにも理解できてはいないのは当然で
というか、なんにも理解できていない段階でうけいれることこそが大切で
それがなければ、次の話し合いにもきっと進むことができません。
それから次に、「どう」違うかをお互いに理解しようと努力することで
ゆっくりゆっくりと、いっしょに成長していけるのではないかなぁ。

『西の魔女が死んだ』のおばあちゃん。
『村田エフェンディ滞土録』『春になったら苺を摘みに』の他国の友人たち。
「みんな、フィデルのせい!」の大人たち。
その環境に放り込まれた(あるいは自ら進んで入り込んだ)主人公たちは
最初は理解できないけれど、
自分とは異なる他者にむかって、そろりそろりと手探りで歩み寄ります。

だって成長したいもの。
やっぱり分かり合いたいもの。
私は世界平和のような大きなものは掲げないけれど、
出会うことのできた周りの人々と、
できればいっしょに、幸せになりたいと思うもの。

akita.JPG

fidel2.jpg人が人のことを理解できる、できないというテーマについては、
違う国、違う文化間などの問題でなくても
大人と子どもとの間でもありますね。

先日『ぜんぶ、フィデルのせい!』というフランス映画を見ました。
そのことについては英文ブログにも書いたのですが
やっぱりこちらにも記させていただきます。
近ごろ、あちらのブログでたらたらと考えて、少し煮詰まったらこちらのブログに書いてみる
みたいなパターンが多いんです。

子どもは大人のやっていること、考えていることの全部はわかりません。
大人には大人の深慮遠謀があってやっていることでも
子どもにしたら迷惑と感じることもあるでしょう。いえ、きっとあります。

『ぜんぶ、フィデルのせい』に出てくる9歳の女の子アンナの
大人たちに対して怒っている顔のこわいこと!
両親がいきなり政治活動にのめりこんでしまい、おかげでアンナは
庭付きの大きなお家から小さなアパートに引っ越すはめになり、
ひげ面の社会主義者がたくさん、夜遅くまで(しかも日曜日まで)
我が物顔に居間で議論するというように、まさに環境が激変してしまいました。
彼女は貧乏になってしまったと感じ、家の中に居場所がないと感じます。

でもこのアンナという女の子のあっぱれなところは、
めそめそしたりいじけたりしないところ。
敢然とお父さんやお母さんに議論をふっかけ、
自分の楽しみの権利を主張します!
(ミッションスクールからの転校は断固拒否するし、
ひとりで裕福なおばあちゃん家に行って休暇を過ごします)

でもそのうちに、だんだんわかってくるんです。
大人たちが彼女の知らない何ものかを願い、一生懸命努力しているらしいことを。
大人たちも間違うこともあれば、後悔することもあるということを。
そして彼女にとっては十分ではないこともあるけれど、
お父さんもお母さんも家族を愛していることを。

しだいに、アンナは
図書館で父に関わりのある国の地図を調べたり、
両親のことを理解しようと、少しずつ、歩み寄るようになります。

アンナは自らの意志で転校を決め、近所の公立学校に通うことにします。
映画の最後は、肌の色も服装もさまざまな子らのつどうにぎやかな校庭で
輪になって遊ぶアンナを上から撮ったショットで終わります。

子どもは、おそらく意味不明で理解できないであろう大人の複雑怪奇な行動を
なんとか理解しようと、ものすごいエネルギーを使います。
大好きなお父さん、お母さんだから
子ども自身の欲や理屈をいったんたなあげして
しだいに相手の思いを大切に扱うことを、学んでいきます。
そのプロセスは、子どもをきっと成長させます。

映画のラストシーンは、少し大人になったアンナが
今度は子どもどうしの differences とどう向き合っていくのかを、示唆しているようです。

私たち大人が、自分と違った価値基準をもつ人と出会った場合も、
おそらく同じことが起こっているのだと思います。

不信とか反発とか、ひょっとしたら怒りとかが起こり。
最初から「受けいれよう」とか「寛容でいよう」なんて
聖人君子のようなことはできません。。。

でも映画のアンナのように、少しずつ少しずつ、
行きつ戻りつしながら、歩み寄っていくことはできます。

どちらの側にも歩み寄ろうという思いがあれば、
必ず、「理解はできないが受けいれる」ときがくるでしょう。

その強さ、勇気のもとは、
愛、友情、いや
ひょっとしたらすべてはやはり目標追求かもしれません。
優越目標・・・Belonging にいたるためのそれぞれの工夫、手段
ななめ上向きの矢印として。

理解はできないが受けいれる

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『村田エフェンディ滞土録』のあと、『春になったら苺を摘みに』を読みました。
それ以降、「人と人が理解し合うこと」と「人が人を受けいれること」について
ずっと考えています。
この本を教えてくださった iku ちゃんや masako ちゃんにも感謝です。
もしよかったら、 私の英文ブログにも、たらたらと書いていますので、読んでみてください。

人が人を受けいれるってどういうこと?
でもそのまえに、まず
人が人を理解するってどういうこと?というところから。

自分以外の人の感情を分かることはできない、とアドラー心理学は教えています。
でも私たちは、なぜその人がその行動をしたのか、
語ってもらうことで、その人の考え方の筋道を知ることはできます。
その状況でその立場にいたから、そう考えてそういう行動をしたのだろうな、
と納得することを「物語の共有」と呼ぶのだと思います。

人を理解するとは、
そもそも自分とまったく違う育ち方感じ方考え方をする他人の
行動の予測ができるようになること。
その人の私的論理を知ること。

だから、生育歴の似た人、育った家庭環境の近い人の行動は、予測しやすいです。
とはいっても、ひとりとして同じ人はいないのだから、
それはいろいろと違いがありますけれど。

さて、「理解」と「受けいれ」の間には、次の4つの関係パターンがあるように思います。
1)理解できるし受けいれることもできる。
2)理解できるが受けいれることができない。
3)理解できないが受けいれることができる。
4)理解できないし受けいれることもできない。

ひとつめは、たぶん何の問題もない、とてもラクチンな関係でしょう。
アドラー心理学の仲間といるとき、こんな感じが多いかな。

ふたつめ、未熟な私には、こういうこともたまにあります。
「この人、こんなふうに行動するんじゃないかなぁ~ほら、やっぱりそうだった」
でも、その行動がなんとなく気に入らないときって、ありません?

みっつめは、梨木さんの一連のお話の登場人物の態度です。
「この人がどうしてこうするのか私には分からない。でも、この人はこのままでOK」
と、相手の感じ方考え方や行動を尊重します。

よっつめ、これをふつう、人は(私は)やってしまいがちかもしれません。
「あの人何考えてるのかしら、信じられな~い」
そしてそれ以上近づくことをやめてしまう。。。

わかってきたことは、このことは
私たちの「価値判断」と大きく関わっているようだということです。
善悪、正邪、好悪。私にとっての常識。私にとっての正義。
それに抵触するとき、たとえそれが自分ではない他人の筋だと分かっていても
つい、私たちは不寛容になります。

個人の価値判断を越えることで、はじめて寛容になることができ、
自分とちがう価値基準をもつ「違う」人を、受けいれることができるようになる。
相手の価値判断を敬い、大切に扱わねばならないと思える。
これが、たとえ理解できなくても
違いを認めて受けいれる、ということではないでしょうか。。。

理解でき受けいれ合える人たちとだけ一緒に過ごせたらラクですね。
でも、それでは人は成長できないのでしょう。
異なる文化、異なる価値観をもつ人々と出会うことは
もしそれを生かすことができるなら、
またとない成長のチャンスになるでしょう。


でもどうやったら、人は、越えることができるのでしょうか?
自分の殻をやぶって。
Judgment を捨てて。

梨木果歩さんの一連の作品では、
友情や、クェーカー教徒らしい奉仕や博愛の精神が描かれていますが

私は、鍵は、ひとつひとつの出会い、エピソードの中にあるのではないかと考えています。
「理解できない」「受けいれられない」と感じる相手と出会ったとき
人がそれを乗り越えていくやり方は、ひとりひとりに任されており
答えは、出会いの中で、そのつど、見つけていくものではないかしら?
その相手と、向き合うことの中で
がっぷりと組み合う経験の中で
目をそらさず逃げない覚悟の中で。

それにはまず、自分が何者なのか
私の依って立つところは何なのかを
わかっていなくては。

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