2009年8月アーカイブ

マップラバー

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本屋は好きでも「科学」の棚に足を踏み入れることはめったにない私ですが
最近、こっている科学者がいます。

福岡伸一。
1959年東京生まれ。京都大学卒。
ハーバード大医学部研究員、京大助教授を経て、現在青山学院大教授。
専攻は分子生物学。

1年以上前、新書のベストセラーコーナーで
『生物と無生物のあいだ』を見つけ、オビによるとおもしろそうだったので
ちらちらと「プロローグ」を読んで、そのまま買ってしまいました。
あとは一気読み!でした。

科学書で感動したのは初めてです。
この方、科学者なのに(?)文章がお上手で、絵画や文学にも造詣が深くて
ひょっとしたら、真木悠介(見田宗介)さんに匹敵する天才かもしれないです。

たとえば、海辺の砂浜を歩くと足元には、
断面に美しいすじの走った赤い小石が落ちており、
また、それとほとんど同じ色彩の小さな貝殻が落ちています。
小さな貝殻の生命はすでに失われていますが、
私たちには、それがかつて生命をもっていたことが、すぐにわかります。
それはなぜでしょう?
貝殻にあって小石にないもの、生物と無生物の間にある決定的な違いは何でしょうか?

あまり書いてしまうと面白くないけれど、
貝殻の表面には秩序があります。
「その秩序は、絶え間のない流れによってもたらされた動的なものであることに、
私たちは、たとえそれを言葉にできなかったとしても気づいていたのである。」

1930年代後半、ルドルフ・シェーンハイマーという科学者が言ったそうです。
「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。」
そして福岡伸一さんが一貫してこだわっているのは、
シェーンハイマーの理論を拡大した
動的平衡 dynamic equilibrium という概念です。

そう、これは、アドラー心理学の文献抄読会で教わった
「冗長性 redundancy」につながるんだ~(@_@)と思いました。

先日は、娘に薦められて彼の新刊『世界は分けてもわからない』を読みました。
タイトルからして「全体論」を彷彿とさせるでしょう?
そうなんですよ。まさに。
「全体は部分の和以上のものである」なんて書いてあるのを読むと、
うれしくなってしまいます。

また福岡伸一さんは、ばりばりの構造主義者のようです。
当たり前すぎるのか、どこにも書いていないですけど。

この世には「マップラバー map lover」と「マップヘイター map hater」がいる。
鳥瞰図的に世界全体の地図を知ろうとするマップラバーと
地図なしで平気、まわりの空気を読むことで動くマップヘイター。
ということですが、言い得て妙ですね。
前者は聴覚型、後者は触覚型に近いでしょうか。

生物の個々の細胞のふるまいは、このマップヘイターの動きなのだそうです。
全体のプログラムを知るものは、生体内のどこにもいなくて
DNAでさえ全体像ではなくて、せいぜい個々のカタログなのだと著者は言います。
そしてこの全体像を知ろうとする試みこそが、
マップラバーである著者たちの研究なのだと。

科学ってけっこう不毛かもしれないし、便利な半面、有害な側面もあるけれど
それでも科学者って、
絶え間ない努力で、少しでも完璧な地図を描こうとしているのですね。

でも、科学的マインドをもたない私でも、思います。
混沌とした世界の中に構造をみつけだすのは、
文句なしに、おもしろい。と。

一見つながりのないいくつかのエピソードから、
ライフスタイルというたったひとつの構造を見つけ出すこと。
そのひとつの構造から、他の問題がぱたぱたぱたと解けていくこと。
アドラー心理学の治療は、まさに
人間の行動に map を与えようとするものです。

私は実は、知る人ぞ知る、ものすご~い方向音痴です。
地図、大嫌い(^^;) これは今さらどうしようもないですけど
少なくとも、言葉を扱う心理学の世界ではマップヘイターを返上し、
つねに map を愛することをこころがけようと思います。

むしろ実利的に(=食べるによい)ではなく
純粋におもしろがる(=考えるによい)ことによって。

友へ

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先日、旧いアドラー心理学の友人とおしゃべりしました。
2000年にパセージリーダー養成をいっしょに受けたとき以来ですので
もう10年近いお付き合いになります。
その頃、私はまだ普通の(?)主婦でしたし、今20歳の息子なんて小学生でした。
この10年、お互い健康面でも、さまざまな変化がありました。

一晩中、おしゃべりの内容はアドラー心理学のことばかり♪
今さらながら、友人のアドラー心理学にかける情熱、というか
その大好きさ加減に、圧倒されました~

でね、思ったんです。
この10年、たしかにお勉強もし経験もし
アドラー心理学についての理解は深まりました。
でも、まだまだわからないこと、知らないことがいっぱいです。
到達点はないし、彼女は私よりずっと先を行く友ですが、
お互いにいつも旅の途上であることに変わりはありません。

また、そもそも持っている性格も
お互い、そう大きく変化したわけではないと思います。
私はむかしも今も、やっぱり怖がりで面倒くさがりですし、
彼女はむかしからまわりを明るくする、人を勇気づけることのできる人でした。

ただひょっとしたら、変化したのは
「共同体感覚」の量、だったかもしれません。


私は自分と自分の家族のために
ただそれだけのために、アドラー心理学を学び始めました。

その頃、地方会のシンポジストを頼まれて
ふたつ返事で(!)お断りしたことがあります。
今でもこのときことを思い出すと、とても恥ずかしくて
申し訳ない気持ちでいっぱいになります。。。
私は、私が学んだことを共同体にどう返すかなど全く考えていない
ただ自分の身にしか関心のない人だったんです。

共同体感覚は、自分が社会に組み込まれていることを意識し
どれぐらい仲間として行動できるかで、測れるものだと思います。
私に与えられているものを、どう使うか。
私が社会から何をもらうかではなく
私が社会に対して何をできるか。

私は、ごくわずかしかなかった共同体感覚を少し育て、
彼女は、もとから持っていた共同体感覚をぐんぐんと伸ばし、
それぞれに成長しました。
そしてそれが、実はいちばん大きなことだったんじゃないかな
と思ったしだいです。

同時に、私たちの「違い」をそのままに感じることができました。
どたり、どたり、とした全然スマートじゃない歩み方、これが私なんだなぁ。
私は、私のままで、成長しよう。
違いは歴然としてある。けれども、違い万歳、です。

そんな平等の位置を実感させてくれた
友に感謝です。

アドラー心理学は美しい

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7月末に、本邦初公開のアドラー心理学特殊講義と演習@大阪に参加し、
翌週の末には、函館まで行って
再びアドラー心理学特殊講義と、翌日の子育て講演会に参加しました。
その前の週は秋田のスピリチュアル・ワークに行きましたし
ヨランタ・プロジェクトも稼働しているので、かなり忙しいです。

けど今日は、久しぶりに何もない日曜日です。
雨模様でちょっと涼しいこともあって、ゆっく~り朝寝ができました。
早朝覚醒がないようなので、ウツじゃないです(^_^)v
ばたばたしてまとまらなかったこなどを、少し書いてみます。


アドラー心理学のビギナーの方むけの子育て講演会は
大阪以外の地域でだけ行われています。
子育てはもうすでに終わった私にとっても、
今回、函館でその講演を聴かせていただけたことは、とても良かったです。
お話の一言一句に、アドラー心理学のエッセンスがギュッと詰まっていて、
前日の「勇気づけ」についての特殊講義との相乗作用で、
とっても勇気づけられました。

子どもは人類の未来です。
ほんとうに大切なことは、いったい何なのでしょうか?
子どもが幸せになることでしょうか?
「違います」ときっぱり教えていただきました。
「子どもが共同体に所属できるようになることです。」

「子どもが建設的な方法で共同体に所属できるようになるため、
そのために子どもが人々は仲間だ・私は能力があると
思えるような子育てをすることです。」

ああ、そうなんだ!
パセージの目指すところは、私と子どもが、仲良くなることではなかったんだ~
(今さらですが・・・それに仲良くなることが最初の一歩であるとは思いますが)

学校の成績やまわりの評価や、あるいは感覚的な快不快に左右されて、
私たちは子育ての目標を、簡単に見失ってしまいます。
大きな視野で、社会に組み込まれた一員としての
子どもの所属(=人々は仲間だ)を考えることが必要だったと気がつきました。

そうして、子どもが自分で問題を解決する経験を積み、
世界の仕組みを知っていくこと(=私は能力がある)は、
特殊講義のテーマ「勇気をもつこと」に直結するのだと、腑に落ちました。

パセージも、基礎講座も、カウンセラー養成講座も、
学習者向けの講義や演習も、ビギナーさん向けの講演も
すべて、なんの矛盾も齟齬もなく、
ただちがった角度からちがった言い回しで
アドラー心理学という大きな学問体系を説明したもので、
それぞれの必然性や角度が、少しだけ分かったような気がしました。

ばらばらと散らばっていた断片がしかるべき位置におさまり
ぼんやりしていた全体像の焦点が、ぎゅーんと合ってきたような感じです。

その全体像は、論理的で、なんとシンプルで美しいことか!
リディア・ジッヒャーの有名なエピソードを思い出します。

わたしはアドラーの本を端から端まで三回くらいは読みました。火曜日の朝、わたしは椅子から立ち上がりました。世界が変わっていました。これこそアドラーのおかげであるとわたしは言いたいのですが、アドラーはわたしに、世界が信じられないくらい単純であることを明らかにしてくれました。(『「アドラーの思い出』p.107)

私はどうやら小難しい理屈をこねくり回し、
あるいは劣等コンプレックスを最大限に使用し、
リディア・ジッヒャー先生のように美しく回心することができないまま、
何年も何年も時を経てしまったようです。

でもアドラー心理学は、
ひょっとしたら、いえきっと、むずかしいものではないんじゃないでしょうか?
使う人の心が汚れてさえいなければ!

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