2009年9月アーカイブ

仏性

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いままでのアスミでは、感情がでてきたら感情に流され
(泣いたりすると、けっこう気持ちいいんですよね~)
考えがでてきたら考えに囚われ
(けっこういい考えが浮かんだような気がするのですね、これが)
瞑想中に aware でおれたかどうかというと、心もとないかぎりでした。

今回は、たとえば呼吸なら、呼吸のひとつ・ひとつに意識をおいてみる。
ただそれだけを、20分続けてみる。ということをやってみました。

それでも、マインドは巧妙に忍び寄り、なにかを囁きます。
吸って・・・吐く、その一瞬の空白に、なにかのイメージが降ってきます。
でもそれはそのままにしておいて、すぐ次の呼吸に意識をもどす・・・

そうやって呼吸のステージが終わり、ただじっと横になっていると
さきほど降りてきたさまざまなイメージの中の、たぶん必要なものたちが
なにかもやもやと形をとり始めます。

勝ちのない戦い。指輪物語の仲間たち。
伊勢神宮の白布。巡礼の白い服。

なぜ人は、
負けと知りながら戦い続けることができるのでしょうか。
負けと知りながら神に祈ることができるのでしょうか。


3日目に、ポアという視覚型の瞑想をしました。
おへそのあたりに水面があって、そこからハスの茎がのび、
胸のあたりで紅いきれいなハスの花が咲く。
その花びらの間から、白い玉が生まれる。
Hum... と息を吐くたび、それがぷるぷると震え、
しまいに頭頂から飛び出して、待っている阿弥陀さまのもとに届く。

黒い水面。濃い緑のハスの葉。紅いハスに白い玉。
こころに描く映像に夢中になって瞑想していて、
ふとまわりに意識を向けると、
参加者みんなの胸に、輝く白い玉が上下しているのを感じました。

なんて美しいんでしょう・・・
たましい?
いえ、これが、「仏性」というものではないでしょうか。

どんな人も仏性をもっている。。。
ずっと忘れているけれど、誰でも、みな菩薩ではあるまいか。。。


My beloved Bodhisattvas....
Yes, that's how I look at you.
That's how you have to start looking at yourselves.
A bodhisattva means a buddha in essence,
a buddha in a seed, a buddha as in sleep.

     ― ON BUDDHA by Bhagwan Shree Rajneesh


人の力を超えた大きなものとつながることのできる何ものかを
誰もが内に備えているからこそ、
人は、大きなものの前に自然に頭をたれ、
そこからエネルギーをもらい、
自分以外のもののために命をかけることもできるのではないでしょうか。

祈りとは、自分の中の仏性を思い出し、
大きな力とつながるための行為なのかもしれません。

ハスの根っこは、見えないけれど土の中で、
みんなつながっています。。。

The Art of Dying

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今回のアスミの私にとってのテーマは、
The Art of Dying・・・いかに死ぬか・・・でした。

人生という戦いには、勝つという選択肢はない。かならず負ける。立ち向かっても負けるし、逃げても負ける。最後に死が来るからだ。(補正項2009年09月19日伊勢

このお話を聞いたとき、私は、振り返ってみて
いかにすべてのものに「勝とう」としてきたかに
気がついて愕然としました。

お金持ちになるとか
出世するとか
人から好かれるとか
そういう勝ち方を私は追求してこなかったし、全く得てもいませんけれど(^^;)

何か意見を言うのなら、上手に言って納得してもらいたい。
みんなに好かれなくてもいいけど、少しの人にでいいから、認めてもらいたい。
死ぬときは、自分の一生に満足できているように、美しく生きたい。
そんなことが全て、私にとっての「勝ち」だったように思います。
優越目標に近いです。

だから、何についても、失敗するのは、イヤ。。。
優越の位置から滑り落ちることは、私にとっての「負け」になります。
劣等の位置を刺激するものには、最初から挑戦したくない。。。
玉砕するよりは、不戦敗を選んできました。

でもたとえ人に尊敬されても、ひとり見えないところでプライドを保っていても、
アドラー心理学のいうように、それらは幻想の中の勝ちでしかありません。
ほんとうは人生に「勝ち」も「負け」もなくて、
ただ大きな流れの中のプロセスのひとつにすぎないのです。

でも私のような凡人には、
いっそ最初から「この戦いに勝ちはない」と思い定めることが、
手放すための、大きな助けになりました。


2日目の会場は、大きな体育館でした。
休憩時間に、大きな高い窓から射し込む朝陽をあびて寝ころんでいると
野田先生が曲をかけてくださいました。
The Lord of the Rings のテーマ、May It Be です。

May it be when darkness falls
Your heart will be true
闇が降り来るときも、あなたの心が真実でありますように・・・

どんなに絶望的な状況でも、最後の最後まで
For Frodo! と叫んでアラゴルンたちが戦い続けたラストシーンとだぶって
休み時間にもかかわらず、ぽろぽろと泣いてしまいました。

だから、立ち向かって負けよう。負けるのを承知で立ち向かおう。立ち向かうというのは、美しく生きて美しく死ぬということだ。美しく死ぬために美しく生きるのではないし、美しく生きた結果美しく死ねるのでもない。生死を通じて美しくあることだ。それが、人間が人間として生きることだ。(補正項・同上)

美しく生きることを優越目標にするのではなく
勝ち負けを手放すこと。
いまこの瞬間を true に生きること。
それを最後の瞬間まで
くり返し選んでいくこと。
それが the art of living であり dying 。

Devotion

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アスミ1日目、瞑想の中で
Devotion(献身)
という言葉が、カードのように、ひらひらと降りてきました。

わき目もふらず
夢中になって踊る巫女のように、身も心も捧げること・・・
というのが、私の描く devotion のイメージです。

マインドにも感情にも流されないで
言われたとおりを忠実に、ただやる。
呼吸するときは呼吸を
踊るときは踊りを
ジャンプするときはジャンプを
ともかくそれだけを。

4日間の合宿中、次から次へといろんな種類の瞑想を行いますが
ときどき、とんでもないことを要求されます。
プレイヤーやナダブラーマのようなソフトなものはいいのですが、
ダイナミック瞑想、アラフーのジックル、グリシャンカールなど、
ほんまですか?!と言いたくなるようなハードなものも、結構あります。

そういうハードな瞑想をすると聞くと、そのたびに、
体育会系でない私は、最後まで倒れないで出来るかしら、とか
苦しいのではないか、痛いのではないか、しんどいのではないか、と
いろんな不安が胸をよぎり、ドキドキざわざわし始めます。

私のマインドは何を怖がっているのでしょう。
どんな瞑想も強いられてやっているのではなく、
いつだって自分からやめることができるのに。
だから、瞑想で死ぬことはないのに。

マインドは肉体の苦痛を嫌がり、いやいや体を動かし
ちょっとでも早く苦しい時間が終わることを望み、
じゃあ、やめてしまえばいいのに、ひとりで脱落することを恐れているから、
なんとか楽に済ませられないかしらと、知恵をめぐらせます。

私にはできないわとか、これ以上は無理だとか、失敗したらどうしようとか、
お金を払って瞑想しに来ているのに、そんな中でさえ
マインドはいつもと同じ、こんな悪戦苦闘を続けています。
なんてバカなんでしょう!

何かに飛び込む準備が、少しだけ、できたように感じました。
Devotion あるいは Surrender・・・
私に欠けているのは、これかもしれません。

それで、おおげさですが、
死ぬ気で、
すべての瞑想を忠実に行いました。

そうすると、おもしろいことが起こりました。
どんな瞑想をしても、あまり苦しくないのです。
からだが軽く動いて、
何年か前にできなかったことが、楽に、しかも全力でできるのでした。
もちろん息は切れますし、
汗びっしょりになりますし、
声は嗄れますし、
手足はつりますが(:>_<;)
まだもっと長時間、たぶん、続けることができたと思います。

終わりのときを待ちさえしなければ、
ここから逃れようと思いさえしなければ、
ただ、言われたことをすると決めさえすれば
私の体はただのエネルギーのパイプになって
いつまででも、どんなことでも続けることができそうなのでした。

シェアリングの時間にそのことを話すと、
野田先生が他のメンバーに向かっておっしゃいました。
「これは、この人がやったんじゃないんですよ」

ああ、そうでした!
私がやったんじゃありません。
私のエネルギーではないのです。

生活や仕事上の課題が、あまりにも次々とやってきているので、
私は最近、ちょっと参っていました。
私には背負いきれないことを要求されていると感じ
できればこの荷を少しでも軽くしたいと考えていました。
劣等コンプレックスです。

・・・だから、ただ、やればいいんですね。
マインドでつべこべ考えずに、
世界が私に求めていることを
ただすればいい。
世界に任せるなら、マインドは必要ありません。
マインドが必要なのは、たぶん、世界に逆らうときです。

瞑想の指示を理解するように、世界が私に求めていることを理解しよう。
指示に忠実に動けば必要なだけのエネルギーが与えられたように、
なんであれ世界の求めに身を任せるなら、必要なことが起こるでしょう。
ただそれだけのことです。

しかも
この身に何かが求められているというのは、ありがたいことです。
Devote する課題があるということは!

伊勢外宮

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2年ぶりにASMIに参加しました。
送迎バスの出る宇治山田駅から伊勢の外宮(豊受大神宮)まで
歩いて10分ほどなので
少し早い電車に乗って、ASMIの前にお詣りしておくことにしました。

神戸市の小学校では、むかしから修学旅行は「お伊勢さん」と決まっていて
おみやげの「赤福餅」や「生姜糖(しょうがいた)」はなつかしい思い出の味です。
でも肝心の伊勢神宮については、ほとんど何も覚えていません。
罰あたりなことですぅ。

だから、まるで初めての気分でお詣りしました。
実際、まるで初めての体験でした。

観光バスの停まる大きな駐車場を抜けて
神さびた大鳥居をくぐったとたん、参道の両側は森閑とした林でした。
観光地の俗な気配がいきなりなくなって、
同じ多くの参詣者が笑いさざめきながら歩いているのですが
なんといえばいいのでしょう、空気がまったく違ってしまったのです。

私にはその気は、ぞくぞくと肌寒く、頭の芯が少し痺れるように感じられました。
砂利を踏みしめながら頭上を見上げると
いずれも樹齢何百年という大木が、はるか上から私たちを見下ろしています。
あたりに充満しているものの中に神を感じて、涙が出そうになりました。

伊勢神宮の御正殿は、参詣者の入れる所から、はるか奥まったところにあり、
玉垣の間の門から眺められるだけです。
外玉垣南御門というところに、
はば2mほどの白布(戸帳というのかな?)がカーテンのように吊ってあり、
私たちは、そこから見えない御正殿を遙拝します。

その白布が風に揺れてひるがえると、
ときおり、奥の御正殿がかいま見えます。

祈る人々の頭と白布、風、
木漏れ日、そして奥におわす神。
すばらしい景色でした。

おそれおおい、とか
もったいない、とか
ここにはそういう物語が脈々と生きていて、
鳥居をくぐった瞬間から、おそらく参詣者全員が
みなその物語を共有するのだと思いました。

何やかや日常のたわいないことを話しながらも、
ここに来た人はみな神聖な気分になって
この国の神さまの前で神妙に頭をたれます。
お母さんが小さな子どもに、神社に来たらまずお祈りするのよと教えます。
撮影禁止を破る人もほとんどいません。
そういえば、落書きも全くありませんでした。

この神社に満ちているのは、
神さまそのものというよりも
この国の人々の、二千年にわたる、信仰の気。。。

そのエネルギーを、たしかに感じました。

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