2011年6月アーカイブ

(3)本もの志向

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今回、長編を4つ連続して読んでみて
以前まったくわからなかった話が少しはわかった気がしました。
あまりあてになりませんけど・・・
ようするに、吉田健一はいつも
「本もの」にこだわっていたのかな、と。
以下しばらくは、興味のある人向けのオタクな話題です。
(別に今はじまったことじゃないかも・・・)

『東京の昔』を読むと
戦前の東京が、都会なのに、いかに静かで木が多く
青い水の流れる掘り割りに区切られて、
どんなに落ち着いた「人間が生活できる所」だったかについて
繰り返し描かれています。

それと対極にあるのが、戦後の東京。
簡単に言ってしまえば、
文字どおりの『絵空ごと』で
「贋もの」のあふれかえる中、限られた「本もの」を少しずつ見つけだしては
仲間うちでそれを愛玩する、みたいな話でした。

ヨーロッパの暮らしを本当の意味で知っていて
戦前の美しい東京の記憶もある吉田健一は、
日本人が戦後、まったく間違った方向に、ものすごい勢いで邁進したことを
ずっとわかっていて
この嘘っぱちにあきあきしていたのではないかな、と感じました。

さういふものだからといふことだけで不愉快なのを我慢し、その埋め合せに気分転換などといふ言葉を使つて愉快であることを求めてそのどつちが本当なのか解らなくなる状態が如何にも意味がないものに感じられた。・・・又それは生活を縞に染め分けてそのやうに染め分けられた生活はそのどの部分も本当ではないと考へられた。
『絵空ごと』

新種の商品に人々がとびつき
みなが「気分転換に愉快なことを求め」始めた昭和の初期。
おそろしいことに
そっくりそのまま、これは今も同じかもしれません。

「本もの」と「贋もの」のテーマは
時間軸だけじゃなくて、空間的にも展開します。

「併し詩でも小説でもそれがフランスに行けばその辺に転がつてゐる訳ぢやない。日本と同じ具合に誰かがそれを書くんだ。そしてフランスが日本ぢやなくて人間の歴史も違つてゐるから書くものも違つて来る。それをさうは思はないから凡そ見当外れな受け取り方をすることにもなる。つまり、」と川本さんは説明するのが面倒臭くなつた様子で、「世界は平たいんだといふことをこの頃考へてゐるんですよ、」と言つた。
『東京の昔』

アドラー心理学をたぶん知らない吉田健一が(^^)
その生活実感から「世界は平たい」と述べるのは
説得力がありますね。
彼は「人々は同じではないが平等だ」って言っているのではないかしら?

ヨーロッパであろうと日本であろうと
昔であっても近ごろであっても
本当のものは本当のものとしてある。

私たちはみな人間として平等なので
その本当のものを愛でて味わい
語り合い、酒を酌み交わし、幸せに暮らすことができる。

けれども「贋もの」を追い求め
「贋もの」に囲まれて生活していては、
それができなくなってしまうのじゃよ!って
彼は言っているのではないかしらん。。。

でも、それじゃあ「本もの」って何なのか。
『金沢』に出てくるような贅を尽くした名品を集めることでは、必ずしもなくて
むしろ「生活の仕方」のような気がしています。

『瓦礫の中』は、
庭に掘った防空壕で何年も生活している夫婦が主人公です。
家を建てて住みたいという欲もあまりなく
特に生活に不便も感じず、淡々と暮らしています。
この人たちは手作りの餃子と、とっておきのウィスキーでお客さんをもてなして

「どんな味がするかですよ。」そして思はず、
「玻璃の鐘、琥珀濃やかなり、」と言った。
「小槽酒は滴って真珠紅、」とまり子がその次を思ひ出して言つた。

『瓦礫の中』

といったような会話をします。
(李賀の「将進酒」という漢詩の出だしだそうです・・・
ふつうこんなの、お、思い出しますか?^^;)

riga.gif

吉田健一の言う「本もの」って
どうやら安っぽい、とか手軽、とかの反対側にあるみたいで
大人であること、にも関係がありそうです。

知識?教養?いや学歴ではなく、
ただしく知恵をつかみとることのできる感性でしょうか。
暮らしの中でその感性や知恵を縦横に生かせることとか、
人とつながることで拡がる精神の自由とかでしょうか。

私たち一般人が本ものを求めるとすれば
酒肴にはたよらず(^^) 瞑想して
「今の時間」をどれだけ深められるか、
というようなことになるのでしょうか。

ま、あれこれ考えましたが、
要するに、いい加減な暮らし方をせず
丁寧に家を調えて
少量の良いものを選んで
少量のおいしいものも食べて(^o^)
ゆったりと生きたいものであるよ、と考へたのでした。

(2)吉田健一は何型か?

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吉田健一の描き出す視覚イメージの見事なことは少し書きましたが
彼の文章を読んでいると、さらに
触覚もものすご~く刺激されます。

登場する男女は知的な会話を交わすだけで
肉体的にはまったくふれあわないのですが、
どうかすると限りなくエロチックに感じるときがあります。

いつも牧田さんと会つてゐる時はさうであるやうに今もその前にゐてそれまでに会つた時のことが凡て勘八の記憶から消えて、ただ闇にも増す黒さで闇の中でも光る感じがする眼をしてそれを伏せると睫が長いのが解る牧田さんといふ一人の女がそこにゐた。その方から庭と廊下に視線を移すとそこに差してゐる日に影が出来るのに似て今度は手に持つてゐる古九谷の杯の模様が酒を通して艶を増した。
『絵空ごと』

書いてあるのはほとんど視覚情報ですけど
「牧田さん」がすぐ傍にいて、その息まで感じられる気がします。
色っぽいなあ。。。

それから登場人物の酌み交わすお酒が
またあまりにもおいしそうなのです・・・
これはとても不思議なことで
私のような下戸があぁおいしそうなお酒だなぁ!って感じるなんて、
一体なんなんでしょうねえ。
本物のお酒飲みなら、絶対にふらふらと飲みに出かけていくことでせう(^^)

もう外は暗かつたが雪明りで寧ろ朝が近い感じだつた。まだ雪が降つてゐるので川に掛かつた鉄橋を通る電車の音も聞えなくて雪の為か船の行き来も絶えたやうだつた。かういふ時には自分がゐる所が夜に包まれてそこだけが明るくて温くなつてゐる気がする。その晩は鮒鮨と生雲丹と何か野鳥の内臓の塩辛が肴に運ばれて来てゐてこれを舐める程度に一口食べては飲んでゐると酒の味が外の静寂を耳に聞えさせた。
「この酒は雪が溶けたやうだらう」

『絵空ごと』

こっちは色っぽくないでしょう?
男2人で飲んでいるんですよ。
ここでは、聴覚的には、音がないという情報だけがあって
触覚的な感覚がけっこうたくさん語られています。
「舐める程度に」というのがいいですね~
お酒もですが、肴も本当においしそうです(実は私、下戸だけど鮒鮨も雲丹も好き♪)
吉田健一を読んでいるといつもお腹が空いて困ります(^^;)

yoshida.jpg
ほとんどどうでもいいことなのですが、
最初私は、吉田健一の文章の切れ目なく長いところや
思考が次々と移って進んでいくところから、
この人はきっと聴覚優位なんだろうなと、漠然と思っていました。

ところが聴覚型のY子先生にその話をしたら、
彼女はそうは捉えておられなかったようで、
そうか、ホントの聴覚型の人から見たら違うのかもしれない。
と反省しまして
それから半ばゲームのように楽しんで、
何型かの証拠探しをしながら読みました。

でもねえ
文中のものすごく洗練された会話など読むと、聴覚的かなあと思うし
器や家具の素晴らしい描写に出会うと、きっと視覚型だわと思うし
ときにぞくっと手触りまで感じられるようなときは、
実は触覚型なのかもしれない!と思うし
どうにも判断がつきかねるのでした。

あらためて
アドラー心理学の感覚型の定義を大きなJ先生に確認してみました。
その人が、どの感覚情報を主に使って
周りの世界を捉えて
世界の予測と制御に役立てているか
ということなんだそうです。

ううむ。
読者にありありと小説世界を体験させるために、
作者はさまざまな表現や技術を駆使して、
感覚器官を総動員して描写し
場(エピソード)の再現に努めるでしょう。
その結果、私という読者の触覚が、うまく刺激されて
おいしそうだなとか、色っぽいなあとか感じます。

しかし吉田健一自身の世界の捉え方そのものは、
どうやら視覚情報が中心かもしれません。
・・・という気がしてきました。
どなたか吉田健一に興味のある方、ご意見いただきたいです(^^)

しかしまあ、下のような文章を読みますと
聴覚も視覚も渾然一体となり調和していて
要するにこういうのが文学なんだな~
感覚型なんて考えるのは時間の無駄、って気がしてきますね。
ただ酔っぱらってるだけじゃない?っていう意見もないことはないですけどね(笑)

月夜といふのは静かなものである。それで遠くの川の音も聞える気がするので、又それは逆に虫が鳴くのを消しもしてその鳴くのは空に届きもしなければ遠景にも及ばず、それで月の反射が弱りもしないからやがては虫の音もその反射の一部に思はれて来る。内山は酒にでなくてそれだけの光の氾濫に酔つた。
『金沢』

吉田健一(1)

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yodhifs2.jph.jpg保田與重郎のエッセイを読んでから
むしょうに吉田健一が読みたくなって
連休の後からずっと
彼の長編小説をまとめ読みしていました。

『瓦礫の中』1970
『絵空ごと』1971
『金沢』1973
『東京の昔』1974
の4編です。

吉田健一の父は
知る人ぞ知る、かの吉田茂元首相です。
ついでに言うと妹さんは、
かの麻生太郎元首相のお母さんだそうです。
明治45年に生まれ
外交官だった吉田茂氏についてヨーロッパや支那を転々とし
日本語よりも外国語の方がはるかに堪能であったとか。
ケンブリッジのキングズ・カレッジを中退して
パリのアテネ・フランセでフランス語を学ぶ・・・
というからすごいですね。
この時代の知識人、教養人の代表というところでしょうか。

大学の授業でリンドバーグ夫人の Gift from the Sea を読まされて
そのとき吉田健一訳の文庫本『海からの贈り物』を手に入れたのが
彼の名前を知った最初です。
でも翻訳では彼の独特の文体は影を潜めていて
それだけ翻訳が巧みなのでしょうが、あまり印象には残りませんでした。

衝撃を受けたのは、10年以上前に読んだ長編小説『金沢』でした。
なに?これ!とでも言うほかなかったです。
文章は難解にして流麗
イメージは多彩
何が言いたいのかちっともわからなかったけど(^^;)

とにもかくにも、この小説に出てくるひとつの茶碗の姿が忘れられなくて
先日読んだ保田與重郎の「藍毘尼靑瓷茶會」で思い出して
またその茶碗に出会うため、もう一度読み直してみようと思ったのですから
このインパクトはちょっとすごいでしょう。。。

ついでに言うと、保田與重郎のエッセイでは
当の器の写真が文章の横に載せてあったので
ああ、こういう姿の器なのだな、とわかったのですが、
吉田健一の小説では、文章そのものの力だけで
その器が、ありありとした「私の」記憶となったのです。

この感動は、読んだ人でないとわからないかもしれませんね。
小説『金沢』ときくと
翡翠色の茶碗の底にうかぶ紅
雨に煙る犀川とその対岸の家並
・・・
なんてものを即座に思い出すのは、
単に、私が視覚型だからかなあ。

縄底の靴

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エスパドリュー(espadrille)とは
「甲はキャンバス地で底にジュート麻のローブ・ソールをつけたフランスの履物」です。
起源はよく知らないけれど
船員さんたちの作業靴だったとかいうことです。

かれこれ20年以上前、神戸元町の雑貨屋さんで
2000円ほどで、きれいな薄紫色のを見つけて
ちょっとかわいかったので買い求めました。
これがとっても快適で、夏のワンマイルウエアとして重宝していましたが
震災で失くしてしまいました。

8年ぐらい前、当時住んでいた駅のビルのブティックで
白のキャンバス地に薄茶色で刺繍したのを見つけて
喜んで買いましたが、
これは安物すぎたのか、少し小さかったのか、
親指の爪が当たるところがすぐに破れてきてしまい、
1年でだめになりました。


年をとってくると、なにはともあれ「ラク」な靴がいいです。
私は足の甲が薄いので、特に夏は、
よほど選ばないと足が前にすべってしまい、
サンダルの前の部分に指が当たって、痛くてしようがなくなります。

高いヒールのサンダルがかっこいいなぁとは思うのですが
espa.jpgもはや、それはとても無理です(;_;)
若い頃は、頭痛がするほど足先が痛くても(!)
我慢して履いていましたけれどね~

どこまでも、ずんずん歩ける靴がいいなあ。
夏も冬も、そんな靴がせめて1足あればなあ!
と常に願っています。

そこで、エスパドリュー。
これならラクだし、
今どきのどんな服にでも合うのじゃないかしら。
今年は是非ともゲットしようと思い、
気合いを入れて探してみました。

しかし出会うときは知らないうちに出会えるのに
探しだすと、なかなか出会えないものです。

ようやく難波で(なんと帽子屋さんで!)見つけたのは、
麻のぺたんこ底の上に、布ではなくて革を張ったものでした。
ちょっと高いけど・・・
お店の人が言うには、ヨーロッパでは
夏は素足に、冬は靴下をはいて、年中これを履くのだとか。
ほんとかな?
でも1年を通して楽ちんな靴が確保できるのは、とってもありがたいので
思い切って買いました!


その後たまたまですが、私の好きなイタリアの作家アントニオ・タブッキの小説
『供述によるとペレイラは......』を読んでいると、
ポルトガルの海岸の「海洋療法クリニック」を訪れた主人公(男性)が

「旅行かばんのなかのものをとりだすと、
縄底の靴をはいて、
木綿のズボンに
カーキ色のゆったりしたワイシャツを着た」
という描写に行き当たりました。

縄底の靴!
エスパドリューのことに違いありません!

1996年にこの小説が翻訳されたとき、
当然日本でもエスパドリューは売られていましたが
それでもこれを「縄底の靴」と訳した
須賀敦子の言語センスは、さすがです。
ここにカタカナを使っては台無しです。

難波のブティックの店員さんは
エスパドリューを「エスパ」って、こなれた感じで呼んでいたけど

要するにこれは縄底の靴。
乾いた砂の上をざくざくと歩くための靴です。

全くクッション性がないので
街中では道路の固さが少々ひびきますが、
どこも痛くならない靴なんて、めったにないもの。
これなら、どこまでも歩いていけそうです。

今年は
乾いた大阪のアスファルトの上を
私もざくざくと歩きましょう。
絶対に雨の降らない日を選んでね(^_^)

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