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ヒエロファニ

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今回、瞑想の3つの段階について教えていただきました。
まず、シャマタ(心が散逸せず一点に留まっている状態)
次にサマーディ(シャマタの対象を取り除いても、心が静まっている状態)
そして運がよければ起こるかもしれないのが、
ヒエロファニ(聖なるものの存在をありありと感じられる状態)
ということです。

私は単純なので、わりと簡単に神社で恍惚としますし
今回のワーク中、ターラ菩薩のマントラをみんなで108回唱えた折りにも、
ひとりひとりの声がひとつになってそこに倍音が加わって
その中で自分の声がある音階で身体に響いたとき、
ぞくぞくぞくっとして涙が流れました。

これをヒエロファニと呼ぶのかどうかは、よくわかりません。
こういう体験に言葉(物語)をつけてこなかったからです。
ただ自分にとって、とても大切な美しい体験であることは確かです。

あるいは、ラマから教えていただいたチベット仏教の瞑想の中で、
仏さまが眼前にありありと現れてくださったり
すぐそばに存在するそのお肌を感じたりして
とても強い喜びを得たことがあります。
こういうのは、シャマタからの手順をひとつずつ踏んだ上での
ヒエロファニだったかもしれないと思います。

village2.jpgヒエロファニ(聖体示現)は、もともとは
私の大好きなルーマニアのミルチャ・エリアーデの言葉です。
彼の幻想小説の中では、けっこうキラキラとした
別の世界に実際に移動してしまうほどの神秘体験として描かれていますが、
そんな凄いことは、妄想の中でさえ自分に起こることはないと思います。。。

和尚が言っているように

神についての考えを全て捨てたとき、ようやく神を知ることができる。そのときお前は、神しか存在していないことを知って驚くだろう!
Drop all ideas about God and you will be surprised, you will be shocked, you will not be able to believe your eyes...because only God is!

ですから、ヒエロファニというものにあんまり囚われると、
かえってややこしくなるかもしれないなと思っています。
ご縁があってヒエロったらラッキーですけど、
その前にするべきことは、やっぱりちゃんと瞑想して
自分の覚醒を上げることかな、と思います・・・地味だけど。


それはそれとして、お友だちと
ヒエロファニの動詞活用を考えて遊んでいました。

   ヒエロらない
   village4.jpgヒエロります
   ヒエロる
   ヒエロれば
   ヒエロ   (爆)

あるいは

   ヒエらない
   ヒエります
   ヒエる
   ヒエれば
   ヒエろ

どちらにしてもラ行5段活用ね(^_^)

わりとヒエロな(形容詞用法)写真が撮れていると思うのですけど、いかがでしょう?

椿大神社

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5月3日から6日まで、スピリチュアル・ワークに行ってきました。
四日市からバスで1時間山に入った
伊勢国一の宮、椿大神社・椿会館が会場です。

四日市の街を遠ざかるにつれ、
水をはった田んぼとお茶畑が増えてきます。
終点の神社前でバスを降りると
鬱蒼とした森に細かい雨が降っていました。

お天気にはあまり恵まれず
2日目は、朝のうちこそ晴れていたものの
そのうちに大木がしなるほどの強風となり
夜中ごうごうと風が唸って怖いほどでした。
関東地方で竜巻の荒れ狂った4日目は、
山では雨風、四日市に戻ると晴れていました。

それでも2日目の早朝と
3日目の夕方のお散歩のときに
たくさん写真を撮りました。

参道の脇道にあるいくつかのお堂や社には
気のよい場所がたくさんありまして
そういう場所で静かに手を合わせると
どこからか水の流れる音が聞こえ
鳥の声が聞こえ・・・さまざまな小鳥の声が重なって聞こえ
風が梢を揺らし葉っぱのそよぐ音が聞こえ
この空間が命に満ちていることを、ありありと感じました。

tubaki3.jpg

先月の瞑想ワークのとき、
神道は社会的な信仰で仏教は個人の救済に関わる信仰だ
と教えていただいたので、そのおかげで
私の中にあった小さな迷いがふっ切れたように感じていました。

仏教の伝えているものは智慧と慈悲です。
しかし神社で感じるのは、智慧と慈悲の物語ではないように思います。
それでは神道の物語の中で
日本の神さまのおっしゃっていることは何だろう、と耳を澄ませてみました。

いただいたテキストの中に
「・・・生あるものは共に栄えるという神道の精神があってこそ、
鎮守の森には生命があふれる」(薗田稔)
という一文がありました。

village.jpgそう、神社で私が受け取っているメッセージは
・・・あらゆるものがみんな生きているのだよ
・・・だからいっしょに生きてゆきなさい
という、調和と生の賛歌ではないかと思いました。

夕方のお散歩で近くの村を散策すると
豊かな村なのでしょう、
大きなお家が、曲がった道沿いにいくつも並んでいて
どのお庭も美しく手入れされていて、花盛りでした。

きよらかで
整っていて
自然と調和している村でした。

先生は「神道の伝えるものは、正直と清浄だ」とおっしゃいます。
すれ違うおじいさんに向こうから「こんにちは」と声をかけていただいた時、
ここは本当に神さまの村かもしれないなと
半ば本気で思ったのでした。

Encouragement

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ところで「許可灌頂」は「こかかんじょう」と読みまして
チベット語で「ジェーナン」
本尊の持つ功徳力を授かるもの、だそうです。
ふつうの灌頂はチベット語で「ワン」といいますから、
たぶん「ワン」より少し簡単なものではないかと理解しています。

通訳をしてくださったのは、高野山でも猊下の通訳のおひとりだった
清風学園校長の平岡宏一という先生です。
猊下のときより格段に分かりやすいと感じたのは
たぶん私が、あの頃よりは少し仏教用語を理解できるようになったからでしょう。

しかし密教の灌頂って、いったい何なのか?
灌頂というものの中で何が起こっているのか?
ある程度わかっておかないと、私はなんだか落ち着かない気分なので
今回はノートを取りながら流れを追ってみました。

こんな私は構造主義者かしら?(^^)

1) ラマ入堂
2) 魔の退散
3) 曼荼羅供養
LobsangDelek2.jpg4) 三宝への帰依と発菩提心
5) 法話
6) 本日の灌頂の由来
7) 灌頂
  7-1) 灌頂をお願いする
  7-2) 菩薩戒
  7-3) 観想
  7-4) 灌頂本体(身口意の加持)
  7-5) 真言の伝授
  7-6) 諸尊勧請と加持
  7-7) 守るべきことのお約束
8) 感謝の曼荼羅供養
9) 廻向

だいたいこんな形だったと思います。
(こんなの書いても興味持つ人はほとんどおられないと思いますが ^^;)

加持とは、英語で empowerment ですが
今回の灌頂を受けて、強く感じたのは、
empowerment = encouragement ということでした。

私には、自分自身を浄める力も功徳も全くないけれど、
さまざまな手続きを経て観音さまのお力を分けていただくことによって
私のような凡夫でも、ようやく仏さまの道を辿ることができるようになるw
よし、やっていこう☆
・・・という感じですかね(^^)

だから灌頂とか加持はとても大切じゃないかなと思いました。
それなしでは・・・道の途中で挫けてしまいそうです。

和尚ラジニーシが言っていました。
・・・私のそばに居る間は、お前たちは悟ったように感じるだろう。
だが四つ辻で別れてしまえば、お前たちは途方に暮れるだろう。
私が光だからだ。お前たちの心に光は灯っていないからだ。
自分の内に光を灯せ・・・!

(THE DHAMMAPADA: THE WAY OF THE BUDDHA, Series 1, Chapter 2)

そうです。
チベット密教は、仏の光を自分の心に灯すことができるように
灌頂や加持を、巧みな方便として考案してきたのではないかなと思いました。

灌頂は initiation ですが、何度受けてもよいので
「通過儀礼」と考えるとしっくりくるように思います。
いったん、今までの罪穢れを白紙に戻してリセットし、
これから守るべきことを新たに心に刻みこみ、
必要な力をいただきます。

take sannyas 出家する、とも違うし
baptism 洗礼、とも似て非なる感じがしますね。
まあ、こんなことに興味を持つ方も、ほとんどおられないでしょうけど(^_^;)


さて、清らかにリセットされた気分で(笑)
その後全員で、大仏殿の須弥壇に上げていただきました。
リンポチェもご一緒です。

巨大な毘盧遮那仏を間近に見上げながら
まずチベットのリンポチェ方がお経を上げられました。
誰言うともなく、みな自然にひざまづきました。
それから私たち日本の参列者たちは般若心経を唱えました。

須弥壇に上がるのは初めてでしたが、
大仏の大きさにあらためてびっくりしました。
台座だけでもすごいですし、後ろ姿もなかなか味わいがありましたよ~

最後に東大寺勧学院の素敵な院長さまにお礼を申し上げ
夕日の東大寺を後にしました。

凡てが、エンカレッジメントだったと感じます。
ロサン・デレ・リンポチェの灌頂そのものもですが、
新緑の奈良を歩けたことも
美しい仏像と宝冠を拝見できたことも
間近で毘盧遮那仏を拝したことも
また、美しいお庭も、
お手伝いのお坊さま方のお姿も。

菩薩の誓願は、今生限りのことではありません。
「菩提を得るまで(=覚りを開くまで)帰依します」と誓うのです。
当然、何生も何生もかかります。
その長~いスパンにわたるお約束。

それに対する empowerment であり encouragement でありました。

でも考えたら、いつもいただいていたのかもしれないな、とも思います。
私が気がついていなかっただけで。

nara4.jpg

悪趣救済

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LobsangDelek.jpgこの日の阿闍梨さまは
ロサン=デレ=ギュメ・ケンスル・リンポチェ(ギュメ寺第101代管長)
灌頂のご本尊は
私の大好きな観自在菩薩(チベット語でチェンレスィ)さまです。

ロサン・デレ・リンポチェは、
お若いときからその博学ぶりが法王のお耳に届くほどの秀才で、
「ミスター入中論」とあだ名されているのだそうです。
(『入中論』というのは、めちゃ難しいチベット仏教の哲学書みたいです)
この日の灌頂が終わると翌日インドへ戻られて
ギュメ寺よりもっと大きなセラ寺の管長に就任されるのだとか。
んーよく分かんないけど(笑)、すごい方みたい。

私にしたら、チェンレスィさまとのご縁がいただければよいので、
それが由緒正しきラマさまからなら、なおありがたいのであります。

東大寺の本坊は小さな建物ですが
広いお座敷にお座布団を100枚近く並べてあって
中央にラマの座、
ラマの右側にチベット式の祭壇がこしらえてありました。

口をすすいで、
カレーパウダーのようなものを手の平にこすりつけて
体を浄めるとイメージします。
おかげで部屋中、ずっとカレーの匂いが。。。(^^;)

幸い真ん中近くの、ラマのお姿のよく見える席につくことができました。
高野山でのダライ・ラマ猊下の灌頂は、800人もの人数でしたので
劇場型の椅子席で、拝礼もままならなかったのです。
今回は、とても近くで、ラマのお顔の表情もはっきりとわかりました。
五体投地も、全員でちゃんと行いました。

nara3.jpgリンポチェ、最初はいかめしい方かと思いましたが
ときどき冗談をはさんで笑わしてくださり、
法王ゆずりのユーモアのセンスがおありでした。
ご法話もとても分かりやすく
噛んで含めるように、
人間に生まれたこの得難い機会を
仏教の実践に使うようにと教えてくださいました。

お座敷の障子を開けると、
本坊の美しいお庭から初夏の風が入ってきて
とても爽やかでした。

ところでこの日の灌頂、正式名称は
「全悪趣救済の観音菩薩許可灌頂」といいます。
知らなかったのですが、
執り行われたのがたったの3回目という、たいへん珍しいものだったのです。

もともと、19世紀チベットのなんちゃら4世が
9世紀インドのなんちゃらという大成就者に
神秘体験の中でお会いして教わったものだそうで。。。
真面目一徹のゲルク派らしからぬご由来なのですが、
そこがまた素敵と感じました。

で驚いたことにですね、この灌頂は1回受けると、
次の生で三悪趣に落ちないで済むというのですよっ。
なんてスグレモノでしょう!

これがどれだけ大きな意味をもつか
仏教を少しご存知の方ならお分かりと思います。

仏教では、全ての生き物は果てしなく輪廻転生を繰り返していると考えます。
地獄界・餓鬼界・畜生界・人間界・阿修羅界・天界とあって、
苦しみの大きい下の3界を三悪趣といいます。
私たちは、ありがたいことに今回は人間に生まれてきたのですが、
覚りを開いて解脱を得るまでは、輪廻の輪の外に出ることはできず、
したがって今回の生を終えれば、また悪趣に生まれてくるやもしれません。

あまりに煩悩にまみれ、貪り・怒り・愚かさを重ねていると
次は、地獄や餓鬼、畜生界に生まれてしまうかもしれません。
そうなると大変な苦しみを味わうことになります。
それで仏教徒(特に小乗仏教)は、なんとか善業を積んで、
善趣(人間・阿修羅・天)のいずれかに生まれることを願うのです。
道徳の基盤ですね。

ところが、今までどんだけ(!)悪業を積んできていても
この灌頂を一度受けたら、次の一度だけは人間になれるんですって♪
なんと安易!(笑)
でも、お得感満載(^o^)

だから安心して悪いことしてもいいよって話ではもちろんなくて、
もう一回人間に生まれて、仏陀の境地に近づくよう修行をしなさいよ
っていう意味なんですよね(^^;)

私のように、この年になってようやく仏教と出合い、
今生では学ぶ時間が明らかに足りない~!という者にとっては、
本当に得難い機会をいただけたと思うので

安心して、今生ではアヤシイ瞑想に深入りしたりせず、
過去生で学ぶ機会があまりなかった仏教の智慧(般若)の部分を
死ぬ前の日まで、出来る限りお勉強しよう~と思うのでした。

チベットおたく(2) ラマ

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なんでもそうだと思いますけど
先生は大事ですね!

この先生から学びたい。
この先生の知識すべてを吸収したい。
この先生をモデルとして生きていきたい。
そんなふうに思える師匠と出会えたら
しあわせですね。

それがあるから学び続けられるのだと思います。
特に、私のようにわりと情緒的な人間は(そうなんですよ!)
いくら筋の通った理論や技術を教えていただいても
それだけでは・・・長続きしません。
(弓道が続かなかったのは、そのせいだったのかも^^;)

アドラー心理学がそうです。
日本の指導者の先生方に加えて
ICSSIでも素晴らしい先生方とお会いすることができたのは、
とても幸せなことでした。
たとえば、イヴォンヌ先生。
一言一句を聴き逃すまいと、全力で向き合ったものでした。

チベット仏教普及協会(ポタラ・カレッジ)でも
何人かの素敵な先生にお会いしました♪

ここに何度か書かせていただいたのは
ガワン・ウースンとおっしゃる先生ですが
今日は、ダンディな(^^)クンチョク・シタル先生について。。。

クンチョク先生から、私は
「ラムリム:チベット仏教の教理・実践体系」と
「ミラレーパの教え」と、2つの講義を受けています。

先生はチベット仏教の本をたくさん書いておられますので
著者にお会いできるのを楽しみにしていました。

でも、実際にお会いしてみると
僧形でもなく、
おとなしくてやさしそうな、ふつーのおじさまでした。

説明の言葉がやわらかく、
「こうしなさいよ~こうしないとこうなりますよ~ということが書いてありますね~」
みたいに、おだやか~に話されます。

ものすごぉくかしこい方なのですが
講義は、なんとなくゆる~く、
ほとんど計画性なく進まれます。
まあこれは、チベットの先生方はみなそうなのですが

アドラー心理学の先生方の
わかりやすくてインパクトある講義に慣れていた私は
正直なところ、少し拍子抜けしました。

どちらの授業でも
先生はチベット語のテキストと大きな解説本を持っておられて
それを読みながら、1文ずつ、日本語に訳していかれます。

miralepa.jpg「ミラレーパの教え」の授業では
日本語訳のテキストが出版されていないため、
生徒たちは、ただ講義を聴いてノートをとります。
私は、2回目の講義からは英語の訳本を手に入れて
それを参照しながら聴いていました。

以前にも書きましたが
英語版テキストと、先生のチベット語テキストとが
微妙に異なっていることがよくあるのです。

名詞や形容詞の訳なら少しぐらい違っていてもいいのですが
関係代名詞や副詞の係り方の違うときや
ひどいときは、主語が全く異なっていることもありますw

で、以前は
無意識的に、というか自動的に
英語本に書いてある解釈の方を私は取り入れ、
先生はたぶんちょっと読み間違われたのだろうナ、ぐらいに
おそれおおくも!不遜にも!
考えていたのでした。

先月のポタラ・カレッジで
いつものようにちょっと解釈に迷う文があったとき
あれ?と気がつきました。

この日私は、ごく自然に、
クンチョク先生のおっしゃることを受け入れていました。
そこで初めて、今までは、
先生よりも英訳テキストの方を信頼していたことに気がつきました!(@_@)

もともとはチベット語で書かれた教えなのです。
それなのになぜ私は
目の前にいらっしゃる師のお言葉よりも
どこの誰とも知らない人の訳した本の方を
無条件に信用していたのでしょうね?

世間に出回ったものの方に信頼をおいていたということです。

毒されています~~(>_<)


どちらが正しいかなんて
本当はどうでもいいことなのだと思います。
問われているのは
目の前のラマ(師)を信じるかどうかです。

アドラー心理学も同じですね。

習ってきたこととニュアンスが違ったり
本で読んだ知識と少し違うように思っても
まずは目の前の先生のおっしゃることを聴いて
その通りにやってみるべきです。
そうすると、実は同じことの別の側面だったとわかる時がきます。
ICASSIで、何度かそんな体験をしました。

新しいことを学びたいなら
この人から学ぼうと決めたなら

おおげさな言い方をするなら
いったん自分を捨てて、目の前の師に帰依しないといけないかもしれません。
中途半端に知識を得ようとするのは師に対して不誠実であり、
こちらも結局は、得るものが少ないのではないかと思います。

これまで、先生の伝えてくださった宝のような智恵を
勝手に判断して取捨選択していました。
おぉ罪深い!心の中で懺悔して、
これからは先生の一言一句をいただこう!

と思ったのですが・・・
今後半年間のスケジュールをチェックしてみたら
なんと、次は9月まで、
私は先生の講義に出席できないことがわかりました orz

kunchok.jpg残念!
でも仏教は一生、
いえ何生もかけて学ぶものです。
この半年間、
どんな忙しいときでも出席できたのは
それなりのお導きがあったからでしょうし、
これからもまた、
私にはわからないお導きがきっとあるべし!(^_^)v

クンチョク先生との出会いを通じて
ラマを信じるとはどういうことなのかを
体験として学ぶことができました。

講義の終わりにお願いして写真を撮らせていただきました。
ありがとうございました!
ラブ~!

チベットおたく(1)

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昨年10月から始めたチベット仏教のお勉強。
ちょうど6ヶ月経って
予定に入れていた6回の講義すべてが終わりました。

半年間、1度も欠席しなかったどころか
ダライ・ラマ猊下の灌頂をいただいたり
関連の講義を受けたくて名古屋に通ったり
チベット語文語文法の勉強を始めたり
われながら精力的に、オプション追加しております(笑)

去年の春、今ごろは、ちょうど弓道を習い始めたところでした。
仕事帰りへろへろになって、大阪城弓道場まで
秋までの半年間きちんと通ったのですけど
今と、かなり燃え方が違います。

なんでしょうね、弓道は弓道で素敵だったのですけど
なんといいましょうか、
「これに出会えた!」感は、なかったのですねえ。。。

今学んでいることに関しては
「これぞ探していたものだ!」という感じがあるのです。
根拠はありませんけど、たぶん前生から・・・
なので、学ぶことがとても楽しいです。

隅から隅まで、巻末の注釈にまで付箋を貼って
繰り返し読んだ本もありますし

あることについてわからないと思ったら
またそれについての講座や本を探し当て
次々と学びが広がっていきます。

すっかりおたく(^o^;)

半年間そうやって手をひろげ
やみくもに走って学んできたことを
ここらでちょっとまとめておこうかな。と思います。
おヒマな方はおつきあいくださいませ。

瞋恚(しんに)

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さて2日目日曜日の瞑想ワークは、
秋から通っているチベット仏教講座と重なってしまっていました。

でもどちらの会場も、うちから徒歩圏内です・・・!
瞑想ワークは10時開始で午後5時終了。
仏教講座は少し遅めの11時開始で午後4時終了。

なので、朝は瞑想ワークの会場に行って
会場を整えたり受付業務をしたりして
それからそっと抜け出して、歩いて仏教講座の会場に行って、
また夕方に戻って、みなさんにさようならをする
という離れ業をすることにしました。
2兎を追って2兎を得るのです~(^_^)

まぁ、当然のことながら、疲れました(^^;)
夕方戻るときにはタクシー使ってしまいましたが、
なんとか両立することができて、濃い1日を過ごしました。

そして、おかげで
ふたつのお勉強がリンクして、
大きな学びがありました。


この日の仏教講座の講義は、
このブログでも何度かふれたことのある
シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』でした。
その中の第6章「忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)」を読みました。

千劫にわたって積んできたもの、布施や諸仏への供養などによる善き行い、それらすべても、たった一つの怒りが打ち壊す。
The worship of the Sugatas, generosity, and good conduct performed throughout thousands of aeons -- hatred destroys it all.

瞋恚(=強い怒り)のごとき罪はなく、忍耐のごとき苦行はない。それゆえ忍耐に注目し、さまざまな方法で修するべきである。
There is no evil equal to hatred, and no spiritual practice equal to forbearance. Therefore one should develop forbearance by various means, with great effort.

先生のご説明では、小さな火があっという間に枯れ草を燃やしてしまう如く
ほんの一瞬の小さな怒りが、
過去生から今までの全ての善業を無にしてしまう、ということでした。
おそろしいですね。
もったいないですね!

また怒りは、相手に害を与えると同時に
怒りを起こした人自身に「心臓に矢が刺さったような」強い苦しみを生じさせます。

つまり怒りは、
今生については、自分にとっても相手にとっても害にしかならないし
せっかく重ねてきた過去生の善業を全て打ち砕いてしまうし、
よって、来生のよい生まれ変わり(転生)を難しくしてしまいます。
ですから、怒りに対治するもの「忍耐」を学ばなければなりません。

というところで生徒から質問が出ました。

生徒「怒りが悪いものだということは、よくわかったんですけど、場合によっては、相手に怒りを見せた方がいいこともありますよね~」

先生は、「場合?ええっと、自分が怒りをもった、悪いことをした、ということに気がついたら、それを相手に伝えるのは大事です。そういう質問ですか?」

あらら、まったくすれ違っています。
先生は発想そのものが違っておられるようです。

生徒「いえあの、相手が自分に対してひどいことをして、害を与えてきた場合に」
先生「相手が害を。はい」
生徒「それに対して、どうしても怒りをもつじゃないですか~そういうとき、こちらが怒っているということを伝えた方が・・・」
先生「怒りをもたないのがいいです」
生徒「それだったら、やられっぱなしになってしまうと思うんですが」
先生「?」
生徒「相手が自分に害を与えてくるときにも、忍耐をするんですか?」
先生「そうです!

この、先生の「そうです!」に、鳥肌がたってしまいました。
ああ、本物だ。。。と感じました。

生徒「ではそんなときでも、怒りの代わりに忍耐をもってくるのですか?」
先生「そうそう。怒ることの対治が忍耐です」
生徒「むずかしいですね・・・」
先生「むずかしいです。それは無理矢理でなく、よく考えます。たとえば相手もしょうがないという事情があるかもしれない。相手もまだ臆念、正知がないからね。あるいは相手は、こちらに忍耐をさせます。これほど素晴らしい苦行はないと書いてあります」

「楽・幸せの原因は、善です。怒りの結果は、大きな苦です。怒りの対治は、害などに対して忍耐することです。忍耐を修習する仕方はこれから出てきます。まず怒りを起こしてしまう原因を考えます」
・・・と講義は続きました。

先生のこの全面的な YES! に比べ
私は、前日の観想の如く、
なんとちっぽけなことに瞋恚という大きな罪を
繰り返し犯していることか!
なんて私は愚かなんでしょう。


考えてみてください。
先生は日本在住の亡命チベット人です。

この仏教講義に政治的な話を持ち込もうとする生徒はひとりもいません。
しかしみな、少なくともチベット仏教を学び、
チベット語でお経を読もうとしている人たちですから、
いまチベットで起こっていることについて
おそらく一般の日本人に比べると、かなり高い関心をもっています。
そういう中で出た質問だったと思います。

こちらにひどい害を与えてくる人に
どんなにされても忍耐するんですか・・・?

そうです!

ダライ・ラマ法王や、高名なリンポチェのお言葉ではありません。、
還俗したごく普通の先生が小さな教室でわずかな聞き手を前にして
たまたま表明してくださった
仏さまへの全面的な帰依に
私はとても感動しました。

仏教は、この人の中に生きています。

この一言をお聞きするために
今日は忙しい離れ業をしたのかもしれないな・・・
と思いました。

瞑想ワーク

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先週末、うちの近所の会場で瞑想実験ワークがありました。

土曜日は朝10時から夕方5時まで、
昨年末のASMIから始まったチベット式の瞑想法を教えていただきました。
私はASMIに行かなかったので、きちんと習うのは初めてです。

座り方から始まって
呼吸を整えて
自分を浄めて
結界をはって
そうしてようやく瞑想の本体(観想)に入ります。

教えていただいた方法で心を静めて
脈菅に沿ってエネルギーを上げると
とても瞑想に入りやすい気がしました。
また、自分が光の結界の中に入っているようなイメージももつので
守られている感じが強くて
わりと簡単に、まわりのことに気が散らなくなります。


suncatcher.jpg「愛する人たちを癒す観想」では、
自分の胸のチャクラにある小さな水晶の玉から
七色の虹の光が出て、それが相手の胸に届くようイメージしました。

キラキラときれいですww
こういうヴィジュアルなイメージもん(^o^)は大好きです。
それに、我が家の窓辺にはサンキャッチャーがあって
晴れた日はいつも、部屋じゅうに虹を放ってくれますから
水晶玉からの光、イメージしやすいです♪

「憎しみを捨てる観想」では、
自分の怒りや憎しみを手のひらに乗せて
それを、目の前にイメージした忿怒相の菩薩さまに差し出して、
食べていただくということをしました。

どんな菩薩さまをイメージしてもいいのですが
思いっきり怖いお姿にするのがいいと言われました。

それで、私は女性の菩薩さまにしました。
髪を振り乱して真っ赤なお姿で
黄色い目をギラリと光らせて
横目で私を見ながら、
ぱくぱくぱくっと私の怒りを食べられます。

vajrayogini_900.jpgところが、食べていただいても食べていただいても
あとからあとから、怒りや憎しみが出てきて
自分でもびっくりしたのでした。

そんなに怒って暮らしていると自分では思わないのですけど
ちょっとした怒り、不快感なら、思いつきます。。。
怖ろしい菩薩さまにそれを食べていただくほどに、
私の中から
そうですね、魚のはらわたみたいにずるずるずるっと
赤黒い怒りが連なって出てきて

ほんとにちょっとした不快と感じていたものが
案外、相当、恨みが深かったことを
思い知らされたのでした。

もう十分きれいになったかなと思ったら
「愛する人たちを癒す観想」をして
その相手に七色の光を届けて仕上げます。

怒りや不快感のきっかけだった相手に対しては
ほんとうにきれいに、マイナス感情が無くなっていました~

しかし、お腹の底の方にあった、あの黒い大きなものはなんだったんだろう?
あれは怒りなのかな、欲なのかな、愚かさなのかな
なんにせよ、醜いもののようでした。
あるいは、これが無始以来積み重ねてきた悪業の一部なのかしら?

毎朝、神棚に手を合わせて「祓え給え、浄め給え」と
唱えているのですが(^^;)

なかなか業が深いようでして
自分の底の方にあるまだまだ黒いものに
残念ながら、気がついてしまったのでした。

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