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奈良・東大寺

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nara2.jpg4月28日、ゴールデンウィークの初日に、
ひとりで奈良の東大寺へ行ってきました。

来日中のチベットのラマから
観世音菩薩許可灌頂
なるものを受けるためです。

たまたま2週間ほど前に、ネットで見つけた情報でした。
あいかわらず、どういうものかよく分からないまま申し込みました。
でも、見つけたということは、ご縁があるということなのだと
最近の私は理解するようにしています。

奈良まで、近鉄で約30分。
2年前イヴォンヌのワークショップに毎日通ったその道を、
真っ直ぐ20分ばかり東に歩けば、東大寺に着きます。

それでも東大寺まで来るのは、自分の遠足以来だと思います。
大仏殿の柱をくぐり抜けたり
若草山でお弁当を広げたことしか覚えていませんけど。

nara.jpg新緑の奈良は
ほんとうに美しかったです。
素晴らしいお天気で人がいっぱい。
鹿もいっぱい(^^;)

灌頂は午後1時からでしたが
昨秋オープンしたばかりの東大寺ミュージアムでゆっくりしたかったので
朝のうちに行きました。

東大寺ミュージアムに入ると
まず誕生釈迦仏立像にお会いしました。
美しいですw(ToT)

展示の目玉は、三月堂の不空羂索観音立像と
あまりにも有名な日光・月光菩薩立像。
不空羂索観音さまは、布か網のようなものを持っておられて
これで衆生をひとり残らず救ってくださるのだそうです。
ありがたやありがたや・・・オンマニペメフン。

しかもタイミングよく、この4月3日から
観音さまの宝冠が、修理を終えて公開されていました。

fukuu3.jpg凄い宝冠でした!
けっこう大きくて80㎝以上あります。
観音さまのお身体が3,4mの大きさですものね。

正面についているのは、(たぶん)阿弥陀如来さま。
透かし彫りの銀に金メッキ。
十方に輝き出る光を表現しています!
しかも全体に
1万個以上の水晶・翡翠・真珠・琥珀・ガラス玉がちりばめられているというのです。
豪華絢爛でしょう!

奈良時代に作られたこの珠玉の宝冠を
目の高さでじっくり眺めることができるなんて、
すごいことだと思います。
だってこの宝冠は、
あの大きな観音さまが1千年以上被っておられたわけで
きっと埃にまみれていただろうし、
傷んでもいただろうし、
この美しさに触れることのできた人はほとんどいなかったのじゃないかしら。

写真の手前に写っているのは、観音さまの8手のうち、
合掌の2手が挟んでいた水晶玉です。
如意宝珠(マニ宝珠)というものですが思ったより小さいです。
いや、像が大きすぎるのか(^_^;)

この展示が終われば、宝冠も如意宝珠も、その他の持ち物も
観音様のもとに返されるそうです。

私はこのお部屋(不空羂索観音さまと、そのお冠)を離れがたくて、
休憩用の椅子に座ったり立ったり、けっこう長い時間を過ごしました。

いいものに出会えた・・・
これだけですでにじゅうぶん満足です(^^)v

お昼は、ベンチで若草山を眺めながら
持って行った林檎を食べました。

さて、灌頂が行われるのは本坊です。
どんなことが起こるのでしょうか~?

syakya.jpg

芝居の魅力

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昨日、ひとりでお芝居を観に行ってきました。

お芝居はあまり知らなくて

若~いときに、小さい劇場のをひとつふたつ。
誘われて、ジョージ・チャキリスの出ていた(英語版)「欲望という名の列車」。
・・・どっちも全然わからんかった(-_-;)

2年ほど前に前進座の「説教節・山椒太夫」を観たのが、
長じて(?)からのお芝居初体験といえます。
説教節はこわかったです~(>_<)

昨年の春、かささぎ座で監督修行をさせていただいたときに、
よい治療者になりたければ良い芝居をたくさん見なさい!
と教えていただきました。

それ以降、アンテナにひっかかったものは
できるだけ見るようにしています。

去年9月に白石加代子の独り語り「百物語」。
これもこわかった~(>_<)
(我ながら、なんでこう、こわいものばっかり選ぶんでしょうね?)

11月に文学座の「岸田圀士傑作選」。
ドラマチックなことは全く起こらないのですが
軽妙で、笑えて、やがてほろっとして、
ようやく少しお芝居に馴染んできました。

このノリで、昨日は、岸田圀士戯曲賞をとったという
「まほろば」という舞台を観てきました。

良かった!v(^o^)v
私は、今まで観たお芝居の中でいちばん良かったです。

10代から70代まで、4世代の女6人だけの物語です。
70代の大おばあちゃんに、中村たつ。
60代の、この家の主婦に三田和代。
東京で働く40代独身、三田和代の長女役は、秋山奈津子。
30代後半未婚の母、今も浮き名を流す次女は、魏涼子。
20歳になったばかり、魏涼子の娘役に、前田亜季。
最年少は、魏涼子のBFの娘役で11歳、大西風香。

丁々発止のやりとりにとても笑えて、
途中でも最後でもうるうるうるっときて
隣が知らないおじさんだったのであまり泣けなくて残念でした。

脚本は、蓬莱竜太という新進気鋭の方で、演出は栗山民也。
脚本も演出も、とても良かったです。
もちろん女優さんたちも。
特に秋山奈津子はスバラシイ!

mahoroba.jpg舞台は長崎県の、とある田舎。
バックに「祭り」があって
テーマは、「産む」ということかなと思いました。

たくさんの子を産み育ててきた大おばあちゃん。
「それでも産まれてくるまでは、心配したさ。
ここから大きな雲が見えたからねえ・・・」
と原爆に言及します。

母親は、この日は祭りの宴の支度に大忙し。
男の子を産めなかったことを苦にしており、
なんとか長女が幸せな結婚をして、本家をついでくれることを願っています。

東京で恋も仕事も順調だったはずの長女は
お酒の勢いで、好きでもない人の子どもを妊娠して4ヶ月。
この祭りの日に帰ってきます。
(実は閉経と勘違いしていたのですが ^^;)

都会で働いていた次女の娘も、妻子ある人の子どもを妊娠して8週目。
傷心で、突然この家に帰ってきます。
大おばあちゃん以外、みなが、次があるからと堕ろすように勧めますが
迷いながらも産みたいと悩みます。

まあ、あれやこれやあるのですが、
最後に男衆がお神輿を担いで、この家の前を通り過ぎていきます。
そのとき座敷の内も外もたいまつの火が燃え上がるように輝き
女たちの顔も輝き
祭りの音が鳴り響いて
妊娠しているふたりの女は、お腹の子が動いたと感じます。

その直後、次女のBFの娘が、トイレから出てきて
「おばちゃん、生理用品貸して・・・」と言います。
初潮になったのでした。
胎動を初めて感じた長女が、「おめでとう」って言います。
そこで幕。

う~ん、ストーリーを書いても
芝居の感動って伝わらないでしょうね。
この、秋山奈津子の万感の思いをこめた「おめでとう」を思い出すと
今でもうるっときてしまうのですが・・・
おそらく台本を読んでも再現できるものじゃないと思います。

ほんとに芝居ってリアルタイム。
その時その場での真剣勝負、
生きるか死ぬか、です。

オペラなどはDVDで何度も見直し聴き直ししますが
芝居の魅力はそれとは全く違いますね。
再現不可能。

mahoroba2.jpg.jpeg

実は1カ所だけ、登場人物が台詞をわずかに間違えたかもしれない
と思ったときがありました。
何気に話は続きましたが、
そこだけ、緊張の糸がふっと途切れた感じがしたのです。
気のせいかもしれませんけど・・・

こわいものです。

逆に、その一瞬があったために、
それ以外の時間は、
緊張がず~~~~っと持続していたことが分かります。
役者さんたちの
ものすごい緊迫感、
ものすごい集中力を感じます。

舞台と観客席を一体にすること。
巻き込むこと。
かささぎ座では、それをさんざん言われました。
監督は、そのため、ものすごいテンションをキープし続けなくてはならない、と。

私、今回のお芝居では、すっかり舞台に巻き込まれていました!
それはとっても素敵な体験でした!

台詞の言い回しとか表情とか、体の動かし方とか
そんなものを学ぶために芝居を見るつもりでいて
そんなことをすっかり忘れて没頭していたのです。

けど、それはそれで良かったのですよね。きっと。

まるで別の人の人生を一緒に味わったかのような
演じられているその場に jump in したかのような
こんな体験が、これからの糧になりえるのではないかしら?


というわけで、さっそく次のお芝居のチケットを予約してしまいましたぁ。
むふふ(*^_^*)v

チベットおたく(番外) 暦

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calendar2.jpgチベット暦は太陰暦です。
1ヶ月は新月で始まり、
1年は12ヶ月のこともあれば13ヶ月のこともあります。
ときどき、同じ日が2回あったり1日欠けたりします(^^;)
そして毎年お正月(ロサル)の日が変わります。
日曜から土曜まで、曜日が七つあるのは同じみたいです。

これらは全て、ダラムサラにある
メン・ツィー・カン(チベット医学・暦法研究所)の
発表に従っています。

チベット暦2139年(西洋暦2012年)のお正月は、2月22日でした。
やっぱ雰囲気を出さなくっちゃね、と思い
メン・ツィー・カン製の1枚もののカレンダーを架けました。
この場所は、数年前は「弘法大師絵巻」なるものを架けていたのですけど・・・
進化か特化か(^^;)


diary.jpg2月にポタラ・カレッジに行ったとき
同じくメン・ツィー・カンのかわいい手帳が売られていました。
ちょうど手帳をなくしたと言っておられた
大きなJ先生に買って差し上げました。

使いにくいことはなはだしいみたいで(爆)
先生は使ってくださいませんでした。。。

rikpa.jpg.jpeg先生はその復讐に
あ、いや、お返しに
どこかで見つけたアヤシイ手帳をくださいました。

リクパ手帳といいます。

これはアメリカの The Rigpa Store というところが販売していて
現在発行されているチベット暦本の中で、
どうやら、最も豪華で最も詳しいもののようです!

さすがアメリカ製・・・
オールカラー!
見開きにはダライ・ラマ猊下長寿のお祈りがチベット語で、
親切なことにローマ字読みと英訳とを併記して載せてあります。
もちろん猊下のお写真も!

うれしいのは、全て
英語とチベット文字と、両方記載されていることですね。
学習者としては読みの練習になります。
ただ、たいへん文字が小さいのがツライですが。

他にも、存じ上げない高僧たちのお写真がずらずらずら。
(ちょっと怖いかも^^;)
いたるところに、インドやチベットの祖師方のお写真、図、経文。
チベット仏教の記念日はもちろん
キリスト教やイスラム教の記念日まで載っています。

とぉってもおもしろいので
「今日は何の日辞典」みたいにして楽しんでいます。

下の写真は今週末からのページ。
右下にある絵は
私がクンチョク先生の最初の授業で教わった、
ミラレパの見た吉祥夢を描いたものです。
白い山の四方に、獅子と虎とガルーダと禿鷹がいます。
カギュ派の繁栄を予言したものだとか。

rigpa.jpg

たのしいです~
でも、実用にはまったく適しません(笑)

元町今昔

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3月のパセージ・プラスは
JR神戸駅から少し東に歩いた会場で行いました。
夕方5時ごろワークが終わって外にでると
まだ明るい春の夕方、雨もあがって暖かい。。。

気持ちがいいので、ぶらぶらと、
元町通りを歩いて帰ることにしました。

神戸は北に山、南に海、市街はその間に細長く延びています。
中央区の三宮駅周辺が一番の繁華街ですが
古くから栄えたのは、三宮よりも西に続く元町通り商店街です。

JR三宮駅のひとつ西が元町駅、そのもうひとつ西が神戸駅。
会場から北東に少し歩けば、元町商店街の西のはしに行き当たります。

野田先生も補正項に書いておられましたが、
私は私の視点から
元町について書いてみようと思います。


私の母の実家は、母の小さい頃は
神戸の熊内というところで大きな家を構えていたそうですが
空襲で焼け出されて、元町商店街に面した家に移りました。
商店街の5丁目と6丁目の間です。

若くして死んだ私の会ったことのない祖父は、そこで質屋を営みました。
なんでも、大きなお蔵だけが焼け残ったということでしたから
質屋が始めやすかったのかもしれません。
祖父が亡くなったあと祖母はがんばって
母をはじめとする姉妹を嫁がせました。
母の弟の叔父が、質屋を継ぎました。

祖母のいた頃、年に何回かは、この家に集まったものでした。
かしましい母の3人の姉たちと、祖母と同居の叔父家族。
私は従姉妹たちと遊ぶのも楽しみだったし
陽気な伯母たちに会うのもうれしかったです。

家の2階の窓は、商店街に面していました。
窓を開けると、すぐのところにアーケードの鉄の脚が立っていて
そこに電飾の看板がついているのが、前から気になっていました。
ある日、ふと、届くかな?と窓から手を伸ばして鉄の枠に触ってみました。
今でもその錆びた色を覚えています。
とたんに、どこからか見ていた祖母に
「危ない!感電する!」と叱られてしまいました。

早期回想ですね。
従姉妹たちの前で叱られてバツが悪かったのと
ほんとに感電するのかな、と怖くなったのを覚えています。
べつに感電なんかしないんですけど(^^;)
祖母は、窓から落ちたらいけないと思ったのかもしれません。

叔父も亡くなった今は、従妹の家族が叔母と住んでいるはずですが
神戸に住んでいた頃でも、買い物はほとんど三宮で済ませていたので
5丁目・6丁目のような西の端まで来ることはありませんでした。
だからこの家の前を通るのは20年ぶりぐらいです!

商店街に面した土地には2軒の店子、古美術商と骨董屋が入っていました。
例の看板も、同じ場所にありました。
もっとも、アーケードも街灯も、
阪神大震災の後、すべて新しく作り替えられています。

質屋の入り口は、昔から角を曲がった裏手にあったのですが、
覗いて見ると、やっぱりまだそこに、ひっそりと店の名が出ていました。


motomachi.jpg元町通り商店街は
1丁目から6丁目まで
ずっとアーケードが続いています。
1丁目の端には今も大丸が
6丁目の端には昔は三越がありました。

スズランの花をかたどった街灯を
父母は「スズラン灯」と呼びました。

母の実家があったからか、
両親ともに元町が好きだったのか、
休日のお出かけは
元町に行くことが多かったです。

ゆっくり歩いていると、いろんなことを思い出しました。

外食は、洋食なら「ハナワグリル」。
大きな貝の器に入れて焼いたコキールが大好きでした。
行くと必ず、ハナワグリルのロゴの形の画用紙がもらえました。
「ロッグキャビン」というお店にも何度か行きました。
これは2丁目の北側、記憶どおりの場所に今もありました。

中華なら「第一楼」か「神仙閣」。
あのころの神戸の大きな中華料理店は、みなビルを持っていました。
個室がいくつもあって、
エレベータも混んでいて中国語が飛び交い、
すごく活気がありました。
神戸では、親戚が集まるときは中華料理、というのがパターンでした。
いま観光客で賑わっている中華街なんて、まだ作られていない頃です。

こうしたお店はみな、本通りからはずれた所にありました。
今はもう私も、行くとしたら、ググってからでないとわからないです。
それに、料理屋さんの法則というのがあって、
 1)安くてまずい
 2)安くておいしい
 3)高くておいしい
 4)高くてまずい
の順に、必ず進化するものらしいので(^^;)
両親に連れて行ってもらった頃は、きっと2)だったでしょうから、
今はどう進化しているのやら。ですね。

昔は、元町を歩いていると
絵に描いたようなセーラー服を着た青い目の水兵さんが
数人で遊びに来ているのに出会ったりしたものでしたが

今はなんだか、そういうの全くないです。
神戸も外国船がほとんど来なくなって久しく、
行き交うのは、インドを含むアジア系の方が多いです。

大きくなってからは
男の子とのデートに、ちょくちょく元町まで来たものです。
三宮よりも混んでいないし、
個性的な舶来雑貨のお店などが多いのです。

結婚してからは、毎日の用事に追われてあまり来なかったけれど、
それでもファミリアの本店で子どものよそ行きを買うとか
お絵かきコンクールで息子の絵が張り出されたりとか
YAMAHAで娘の吹奏楽の楽譜を探すとか
丸善で自分のために洋書を買うとか、なんやかんやで
2丁目ぐらいまでは、ときどき来たものです。

motomachi2.jpgいま、3丁目から西の元町通りには
おしゃれなケーキ屋さんがたくさん出来て、
コーヒーのチェーン店はないけれど
「珈琲館」という雰囲気の喫茶店がたくさんあります。

安くで済ませるなら三宮周辺が便利ですが、
お金をかけてもゆっくり過ごしたいなら
元町の方がいいなぁ。

神戸に住む日が再びくるかどうかわからないですけど、
もしも、いつか両親の家に帰って住むことがあるとしたら
またときどきは元町に出て、ぶらぶら歩きしたいな~と思います。

ちょっとぐらいお金がかかってもいいから、ゆったりと生活を楽しみたい。
ぼつぼつそんなことの言える年齢に
なったということなんでしょうね(^^;)

トゥルク

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チベット語レッスンで「トゥルクTulku 」という単語を覚えました。
そこでトゥルクつながりのお話。
おひまな方だけどうぞお付き合いください。

ご存知のように仏教徒は輪廻転生を信じています。
が、覚りの境地に達した仏陀は、もう転生をなさいません。
六道輪廻の輪の外に出てしまわれます。
ただ衆生に対する慈悲のあまり、
この世の姿で私たちの前に現れてくださることがあります。
それが仏陀の応身(おうじん)=トゥルクです。

チベット仏教独特の「転生活仏」も、トゥルクといいます。
トゥルクはたくさんおられるようですが
たいへん高位のトゥルクがお亡くなりになると
夢見や予言などによって、チベット中に僧が派遣され、
転生者を捜索して、さまざまなテストや手続きを経た上で認定されます。

ダライ・ラマは
観自在菩薩の生まれ変わりのトゥルクでおられます。
現法王は14世。
映画「クンドゥン」に、幼いラマさまが探し出される場面がありました~

ところでダライ・ラマと並んで高位のトゥルクは、
パンチェン・ラマとおっしゃいます。
こちらは阿弥陀如来の化身とされています。

パンチェン・ラマ10世は、ダライ・ラマ14世猊下より3歳ほど年下で
1959年に猊下が亡命された後も、チベットに残られました。
中国共産党は彼を「教育」してダライ・ラマに対抗させ、
中国寄りのチベット民族指導者に仕立て上げようとしました。

しかし1962年、パンチェン・ラマは
中国のチベット支配を批判した七万語にもおよぶ文書を発表します。
さらに1964年、ラサの大祈願祭(モンラム・チェンモ)において
ダライ・ラマ批判を命令されていたにもかかわらず、
検閲を通した予定原稿を読まずに、
「ダライ・ラマ法王はチベットの真の指導者であり、法王は必ずやチベットに復帰されるであろう。ダライ・ラマ法王万歳!」
と演説されました。

私はこういう話に弱くて
すぐ感動して鳥肌がたってしまいます・・・。
あまりいい写真がないので、YOU TUBEの動画を貼り付けておきます。
体格のよいおじさんです(^^)
(もしもこの動画の音楽も楽しめるようでしたら
あなたは立派なチベットフリークです^o^)

3分すぎぐらいから、車で移動するパンチェン・ラマを
どこまでもどこまでも馬で追いかけて
護衛するかのようなチベットの人たち。
その心を思うと涙がでます。

当然のことながら中国共産党は激怒し、彼を10年にわたり投獄しました。
その後も北京で軟禁状態におかれていましたが
1989年、公の場で再び、用意された原稿を無視して
中国のチベット統治の誤りを告発する演説を行いました。

そのわずか5日後の1989年1月28日、急逝されました。
自室で心臓発作を起こしたということですが
一説によると毒殺ではないかと。

ダライ・ラマ法王が激動の人生送ってこられたことは有名ですが
中国に残ったパンチェン・ラマ10世の苦しさ、立場の難しさは
想像を絶するものがあったと思われます。
文字通り命を賭した決断が何度もあったのではないでしょうか(;_;)

そのパンチェン・ラマ10世の生まれ変わりと認定された
6歳のパンチェン・ラマ11世は、1995年、
認定3日後に、母親とともに行方不明になり
いまだその生死もわからないのです。
中国は、ダライ・ラマ法王の認定を認めず、
捜索に当たった高僧たちを処罰し、
別のパンチェン・ラマ11世をたてています。。。


この陰謀と捏造に満ちた歴史の中で
(映画のようですが、隣の国で現在進行形で起こっていることです)
もう1人の大切なトゥルクがおられます。
カルマパ17世です☆

ダライ・ラマとパンチェン・ラマが
チベット仏教のゲルク派のトゥルクであるのに対し、
カルマパはカルマ・カギュ派のトゥルクです。

カルマパ16世はダライ・ラマ法王と同時期に亡命し、アメリカで亡くなりました。
1992年、転生者として発見された8歳のカルマパ17世は
ダライ・ラマ法王に認定され、中国もこれを認め
パンチェン・ラマに替わる親中国のチベット指導者に育てられようとしていました。

ところが14歳になったカルマパ少年は
1999年12月28日、中国政府の番人たちの目をそらせ
お寺の寝室から脱出したのです!

車、徒歩、ヘリコプターも使ったと言われています。
国境を越え、ネパールを経由してインドへ。
2000年1月5日早朝に、ダラムサラに到着しました。
8日間にわたる厳寒の逃走に、
カルマパの足は凍傷、顔の皮膚もひび割れていたということです。

carmapa.jpgこの突然のインド亡命は、当時のチベット関係者を熱狂させました。
若いカルマパ17世はチベットの希望の星なのです。

その後ダラムサラのギュート寺で修行を積み、いま27歳。
ダライ・ラマ猊下のおそばによく写っていらっしゃいます。
なかなかイケメンでございましょう?
私のお気に入りでございます(^-^)

こんな逸話があるそうです。
カルマパまだお小さいころ、
江沢民主席が、カターをお首に掛けようとしたところ、
江沢民主席の手からカターを奪い取ったとか(^o^)

・・・カターは白いスカーフで、渡すことで相手への心からの敬意を示します。
目上の者が、相手の首にかけるシキタリで
目下の者は、目上の者に対しては、その御前に捧げ出すシキタリ。
対等の場合は、お互いに手首に掛け合うのだそうです・・・

するどい眼光ですね。
どんなに「愛国的」教育を受けてもブレない。。。
カルマパの賢さもさることながら
周囲のチベット人たちが、少年を洗脳から守ったのでしょう。
おそらくは身を危険にさらして。


ダライ・ラマ14世猊下はもちろんですが
パンチェン・ラマ10世も
カルマパ17世も
そしてその周りの人々も、
祖国のため民のため教えのため
命を賭けて、出来る限りのことをしておられます。

この世でなすべきことをなす・・・
そのために生まれてきた・・・という意味では
背負う責任の重さや能力や出自は比べようがないほど違うけれど

私たちもみなトゥルクかもしれない
と思うのでありました。

hishollinessjpg.jpg

真葛香山

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って陶芸家をご存知ですか?
先日、岡山で展覧会に行ってきました。

昨年末、美容院で雑誌『和楽』をぱらぱらめくっていると
「真葛香山~世界を驚かせた焼物」という記事が目にとまりました。

聞いたことのない名前でした。
どう読むのかさえ、自信がない。。。
(そのまんま、まくずこうざんでした)
が、衝撃的だったのは、その焼き物の写真です。
そりゃ世界も驚くでしょう、私もまたひどくひどく驚きました。

makuzu3.jpg.jpegこれは彼の最高傑作と言われる「真葛窯変釉蟹彫刻壺花活」です。
どうですか!
これが土と釉薬だけで出来たものだと信じられます?

帰宅してインターネットで検索してみると、
私は全く知りませんでしたけど、
明治・大正時代に一世を風靡したブランド(?)だったようです。

京都の陶芸家の家に生まれた宮川香山(のちの初代・真葛香山)は、
明治維新をきっかけに、横浜に海外輸出向けの窯を開きました。
彼の華麗で多彩な作風は大評判になって、国内外で高い評価を得、
万国博覧会でも受賞を繰り返したといいます。

初代は、宮内省から「帝室技芸員」という称号も授与されました。
これは明治から終戦までは
人間国宝よりさらに厳選された栄誉だったみたいです。

京都の野々村仁清や尾形乾山ふうのものから、
青磁や清の黄色い磁器まで、
様々な作風の全てが高い完成度を誇っており
海外では「マクズウェア」ともてはやされたようです。

それほどまでに有名だったのに今ほとんど忘れ去られているのは、
昭和20年、横浜を襲った空襲によって
窯も工房も、三代目の家族もろとも、みな燃えてなくなってしまったからです。
四代目はこのとき疎開していて無事でしたが、
この人が亡くなると、真葛焼きは文字通り消えてしまいました。。。

雑誌には、岡山で「真葛香山展」が開催されていると書いてありました。
2月7日までということなので
1月29日(日)の「ライフスタイル分析デモンストレーション」に合わせ、
お勉強の前日に美術館に行ってみようと思いました。


岡山・吉兆庵美術館。
どうやら、「源吉兆庵」という和菓子屋さんの、私設美術館のようです。

地図をたよりに28日土曜の昼すぎ、岡山駅前からバスに乗りました。
めざすバス停は「築港新町」と書かれていますが、どのあたりか見当がつきません。
結局かなり遠くて、初乗り100円のバスで390円かかりました。
岡山市内が、だいぶ把握できました~(^^)
バスを降りてからも10分ぐらい歩かねばならなくて、
われながら、寒風の中よくたどり着いたものだと思います(^_^;)

美術館は、源吉兆庵本店の奥。
店員さんに入場料を払うと、愛想よく
「美術館ですか?ちょうど先生が入られたところですよ、どうぞ!」
と入り口を示されました。

「先生?」「はい、ついさっきですからね、どうぞどうぞ!」
よく分かんないけど言われるままに、もれてくる声を頼りに奥へ進むと
ひとつの展示室で、5人ほどの中高年男女の一群が話しているのが見えました。
そのうちのひとりが学芸員の先生のようで
国宝級の備前焼の解説を、ひとつひとつ丁寧にしてくださっています。

こんな機会は、めったにありません♪
あとでチラシを見ると、月1回のにちょうど当たったようでした。
途中からですが、ありがたくご一緒させていただきました。
むかし陶芸を習っていたことがあったので
そのわりに知識はないですけど、
よいものを見るのは、とっても好きなのです。

さすが備前焼きの本場!豪勢な備前焼のコレクションでした。
備前焼の人間国宝は4人だか5人だかおられるようですが、
その方たちの巨大な(重そうな!)作品が
本当にたくさん、ゆったりと並べてありました。

しかしこれは常設展。ここで地味な備前焼きで目の保養をして(^^)
そのあと、いよいよ2階の真葛焼きの展示室へ。

makuzu5.jpgおおおぉぉ~
華麗です!
はるばる見に来て本当によかったと思いました(^-^)

先生についてゆっくり見学して
それから自分のペースでもう一巡り。
いったん階下に降りて、来たとき見逃した最初の方の備前焼を見て、
再び2階に戻って、誰もいなくなった展示室で
心ゆくまで真葛焼きを鑑賞しました。

例の蟹の花器の実物は、さすがに凄かったです。
人間業とは思えませんでした。
撮影禁止だったので、私の好きになった作品たちを
全てここに載せることができないのが、とても残念です。
インターネットでも画像を見つけることができなかったので
目に焼き付けた記憶を、大切に、忘れないようにしたいです。

makuzu2.jpg小さな小鳥の香合がいくつかあり、とても愛らしかったです。
特に、雉が粟をついばんでいる置物が素敵でした。
写実的で、今にも動き出しそう・・・
鳥の体温さえ感じられそうな気がします。

どちらかというと、大胆な筆使いの乾山風のものより
仁清風のデリケートな模様が私は好きで、
左の「古清水意真葛窯水指」なども、
いつまでも見飽きません。


いちばん捨てがたかったのが
(って持って帰るわけにいかないけど^^;)
20㎝ばかりの高さの鍾馗像。
鍾馗さんは獅子を従えていて、左手を獅子の背中に置き、
右手は、剣を上向きに構えています。
鍾馗のおそろしい顔と獅子のおそろしい顔だけは、素焼きの土のままの色。
あとは全て青磁釉をかけてあるだけのシンプルさです。
この素焼きの顔の、見開いた目の、すごい迫力!
魅せられて、しばらく前を動けませんでした。

ギリシャ彫刻の色を塗っていない見開いた目、
大理石あるいは石膏にうがたれた白い目に、惹かれたことはありませんか?
小鳥や蟹や竜は彩色して、画竜点睛、生き生きとした目を入れるのに、
この鍾馗と獅子の顔にはあえて色を使わなかった。
天才のなすことはすごいです。


さらにまた、1枚だけ、初代の描いた山水画が架けられていました。
山の麓に描かれた庵は陶工の小屋のようで
中では人々が、絵付けをしたり、器を運んだりしています。
その人たちの明るく楽しそうなこと!
ほんのひと刷毛ふた刷毛で、体の動きも表情も描ききっています。
この筆使いの巧みなこと!
日本画の真骨頂ですね~

この力が、見事な絵付けの源泉なのでしょう。
横に並んだ二代目、三代目の画と比べると
素人目にも歴然とした違いがありました。


ほんとうによい物を見ることができて
至福の時間でした。

夕方、駅前に戻ってインターネットで予約していたホテルに入ったら、
「本日混み合っておりましてご予約いただいたお部屋がお取りできませんでしたので」
・・・何を言われるのかと思いきや、
「レディース専用ルームをご用意させていただきました」
「設備もアメニティもご自由にお使いくださいませ。
冷蔵庫にペットボトルが入っておりますが、それもご利用いただいて結構です」

あれま。一番お安いシングルを予約したんですが
そーなんですかっ♪
お部屋も少し広かったし
美容液など一式と
蒸気でお顔をお手入れする器械なんかも備え付けてあって

なんだかラッキーな独り旅でございました。

makuzu4.jpg
翌日は、アドラー心理学のライフスタイル分析公開カウンセリング。
こちらももちろんよろしかったのでございますが
私にとっては、この前日の印象がとても強くてしあわせだったので
お勉強の話題は、今回は、なし!
(笑)岡山いいところです。

年の瀬に

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そろそろ今年も終わります。
忘れられない2011年3月11日
神さまが日本の来し方行く末を嘆かれて
大きな怒りの身震いをなさった日。

あれから、日本はほとんど変わっていません。
むしろ悪くなる一方に見えます。
悲しいですね。

でもあきらめず、少しずつ変わっていくしかないのでしょう。
まず、「私」が変わることからね。


ところで今年は、生まれて初めて(!)
きんとんと黒豆を自分で作りました。

前に結婚していた頃も今も、ある程度のお節料理は必ず作っていますが
きんとんと黒豆は、いつも、母の作ったのをもらっていました(^^;)

母のきんとんと黒豆が一番おいしいと、昔も今も、固く信じているのです。

ですがさすがに母も高齢になり
今年はもう作らないと言いますので
では遅ればせながら自分で作ろうか、と
実家に行った折りに、詳しい作り方を教えてもらいました。
ついでに、くちなしの実や、重曹や、丹波黒豆の上等なのやらを
一式もらいうけました(^_^)

できたものを買うという手もありますが
売っているものはおいしくないです(きっぱり)。
何より、私自身、母の味のきんとんと黒豆を食べないと
お正月がきた気がしないです。


昨日、前夜から水(+重曹)につけていた黒豆をたきました。
あくをすくって
豆が顔を出さないように、ときどき水を足して
母のレシピによると3~4時間、煮ます。

砂糖の半量を入れて15分。
残りの半量を入れてさらに30分。
最後に濃い口醤油をほんの少し。

ふっくらとおいしくできました。
ちょっと甘すぎたかもしれないけど
でも、つやつやです!(^o^)

同時進行できんとんも作りました。
さつま芋は、一度下茹でしてあくをとってから、
くちなしの実を入れて、本茹でします。
やわらかくなったら熱いうちに、裏ごしします。
これが結構めんどうなんだけど
でも、この一手間でおいしさが全然違いますから。

裏ごしした芋に、砂糖と、瓶詰めの栗のシロップを加えて
かき混ぜながら、とろとろと煮詰めます。
これはもう、さつま芋のあんこです・・・
みりんとほんの少し塩を入れて、栗を足したらできあがり~!
これも、つやつやです~(^o^)v

とりあえず、母の味は相伝いたしました。
めでたしめでたし。


お節料理って、要するに手間をかけることなんですね。
忙しいからつい手抜きしたくなりますけど、

さつま芋を裏ごしするとか
黒豆が出ないように気をつけるとか
数の子の薄皮を取り除くとか
田作りを、パキンとなるまで煎るとか
なますの大根を細く細く刻むとか

ひとり黙々とこういう作業をするのは
没頭しているようでもあり
いろんな昔のことを思い出しもし、
なんだか瞑想的ないい時間で、好きです。

お節はほんの少しでいいんだけれど、
無いとお正月がきた気がしない。。。

掃除だって、もう今年はいい加減で済まそうって思っていても
やっぱり夕方に台所仕事が終わったら、
レンジや流しを磨いて、新しい布巾をおろします。

他の部屋にも、もう一度掃除機をかけて
なんとなく机の上も整えて
今年のゴミは出しておこうと思います。

年が明けても
今日と同じ明日が来るだけだとも言えるのですが・・・
これは、民族の血ですかね。


で結局、母は、今年もやっぱり、きんとんと黒豆を作ったみたいです(^^;)
無しでは、両親のところにもお正月はこないのでしょう。
近くに住んでたら、持って行ってあげるのにね。。。


今年1年、みなさまどうもありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えください。
nenga2012.jpg

松阪(おまけ)

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さて合宿のあと、
リーダーのI子さんのお宅におじゃまして数時間ゆったり過ごし
夕方6時前のJR特急に乗りました。
夜9時半すぎには、上本町に帰れるはずでした。

その前から雨が降っていて、少し雷も聞こえていたけれど
まあ夕立ぐらいに思っていたところ・・・

これがかなりの集中豪雨だったようでして(*_*;)
駅を出てすぐに電車はのろのろ運転、
外は滝のような雨、
あげく停まってしまいました~(-_-;)

尾鷲で動かなくなったときは、正直どないしようかと思いましたが、
尾鷲に住んでおられるアドレリアンを何人か思い浮かべ、
いざとなったらI子さんに連絡してもらって転げ込もうかと考えていました。
いや、あつかましいこと(^^;)

でも幸い、このときは1時間ほど停車して運転再開。
しかしあいかわらずの徐行運転と「安全確認のための停車」の繰り返し。
これではいつ目的地に着くやら、先が読めません。
車内販売のお弁当を食べ、持っていた本を読み、時間をつぶして過ごしましたが
けっきょく私の降りる松阪に着いたのは、夜12時前でございました(@_@)

その間に乗り継ぐ予定の近鉄特急はとっくに行ってしまったわけで、
でもまあ、切符はきちんと駅で処理してくれましたし、
松阪駅前のビジネスホテルを電車の中から予約しておきましたので
不安はなかったです。

それに窓の外の激しい風雨と
あまりにもスリリングな海岸線を見知っておれば
こんなところを無理して走ったら余計にあぶねえ~
ということぐらい誰にでも分かります。
4時間半遅れといって騒ぐ乗客はいませんでした。
車掌さんも、お弁当売りのお兄ちゃんも、みな超過勤務です。
保線の方々もたいへんだったでしょうねえ。

その先、終点の名古屋に着いたのは午前1時ぐらいでしょうか~
名古屋まで乗ったみなさんはおつかれさまです。
JRは、新幹線の切符を買っていた人のために臨時寝台特急を出すと言っていました。
その他の人には、駅の待合室と空いている寝台車をお使いください、
って言ってたけれど(^^;)・・・寝れるか?
それを考えると、私は日付の替わる頃にホテルに入れてラッキーだったですぅ。

本当に雨の多い地域なんですね。
熊野市内でも警報が出ていたそうで、もしも1日ずれていたら、
私たち、千枚田荘に閉じこめられていたかもしれません。
(それはそれで雨の棚田が美しかったカモ)

そういえばアドラーの勉強に新大阪に来た人たちが
電車が遅れて・・・と言うのを聞いたことがありました。
熊野は、遠い。
そんな遠くから、はるばるリスクをおかして
何度もアドラー心理学の勉強に通って来ておられたんだなあ!
自分がこんな経験をすると、あらためて感動してしまいました。


matusaka1.jpgさてシャワーを浴びて予定外の一泊。
雨はもう止んでいたし
せっかくだから松阪をちょっと見物して帰ろうか、と思い

フロントで市内観光マップをもらって
翌朝ぶらぶらと、楽しく散策いたしました。

matusaka5.jpg松阪は、面白い町です!
駅前から職人町通りを抜けて観音小路、
三井家発祥の地の前を通って
松阪商人の館を見学するつもりだったのですが、
残念ながら月曜日で休館でした。

松阪城跡は昔行ったので
本居宣長のお墓のある樹敬寺へお詣りしました。
大きなクスノキに
蝉がたくさんとまって鳴いていました。

そうして松阪牛弁当を買って
ようやく近鉄特急に乗り
ついに大阪の街に帰りついたのでした。
とっぴんぱらりのぷう~

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